叶堂城跡から兵庫県道25号線を西に走る。
この寺院には、洲本市中川原二ツ石から出土した、弥生時代前期~中期の制作にかかる黄帯文銅鐸が保管されている。
銅鐸は、国指定重要文化財である。公開はされていないが、南あわじ市滝川記念美術館玉青館にレプリカが展示されている。
弥生時代には、これらの青銅器は祭器として使われたことだろう。銅鐸は、2世紀には使われなくなり、集落の外れなどに埋められるようになった。
銅鐸が使われなくなった理由は分かっていないが、銅鐸が廃棄された時期と「魏志倭人伝」で言うところの倭国大乱の時代は重なる。銅鐸の廃棄は、ヤマト(邪馬台)国の出現と関連があるのかも知れない。
隆泉寺から東に戻り、南あわじ市松帆西路にある南あわじ市滝川記念美術館玉青館を訪れた。
玉青館は、淡路で活動した南画家の直原玉青の絵画や、松帆銅鐸の実物を始めとする南あわじ市の遺跡から出土した遺物を展示する美術館である。
館に入って、1階ホールから中国風の八角形の塔の天井を見上げると、玉青が描いた龍の絵が見えた。
玉青は、南画を描きながら、禅宗の一派である黄檗宗の僧侶となって、玉青館の近くにある国清禅寺を再興した。
玉青の作品には、禅の十牛図のように、白牛を悟りの象徴として描いた南画が多い。玉青館の1階には、玉青の作品「うしかひ草」12枚が展示されている。
禅の十牛図は、人が悟りに至る十の階梯を絵にしたものである。
牛の世話を任された童子の下から逃げた牛を、童子が探し求め、見つけ出して家まで連れて帰る物語を十枚の絵にしたものだが、実は牛が禅家の求める悟り(真の自己)を象徴している。「十牛図」では、牛を得た童子は、牛を得たことすら忘れ、世俗の中に入っていく。
展示されていた玉青の優しい絵は、観ていて心を和ませてくれた。
玉青館に展示されている銅鐸は、既に「松帆地区の青銅器」の記事で紹介してきた。南あわじ市内の遺跡や古墳から発掘された遺物も、今後当該遺跡や古墳を紹介するときに、併せて紹介したい。
さて、玉青館の東側の丘に、兵庫県指定文化財で、貞治三年(1364年)の銘がある六面石幢が建っているとのことだったので、探してみたが見当たらなかった。
私が丘に入る道を探してさまよい歩いていると、竹の伐採をしていた地元の男性が声をかけて下さった。
私は、スマートフォンに南あわじ市のホームページに掲載されている六面石幢の写真を表示して、男性に示して場所をたずねたが、「見たことがないなあ」とのことであった。どうやら地元の方も知らない場所にあるようだ。
しかしその後、私は何とか自力で六面石幢の所在を突き止めた。以下に行き方を紹介する。
玉青館の東側の丘の更に東側は、一般民家が立ち並ぶ住宅街になっている。
住宅街の民家の間に、丘に向かう道がついている。
道の突き当りを左折すると、上り坂になる。
この坂を登り切って右折すると丘の中に入っていくことになる。
丘の入口は藪に塞がれているが、藪の下に人一人が歩いて行けるコンクリートの道がついているのが見えた。
藪を潜って中に入ると、すぐ右手に砂岩で作られた六体地蔵が見えた。
この六体地蔵を見た瞬間に、六面石幢はこの先にあると思った。
六体地蔵を過ぎると、コンクリートの道は右に折れた。
藪をかき分けながらコンクリートの道を歩くと、墓石が転がっている場所に出た。
ここで道を一旦見失ったが、よく見ると、藪の中にコンクリートの道が続いているのが分かった。
上の写真で言うと、この先の左側に道が続いている。
さて、藪をかき分けながら更に進むと、ついに六面石幢が目の前に現れた。
六面石幢は、六角形の塔身の各面に仏龕を彫って、その中に仏像を刻んだものである。
この六面石幢が建つ場所は、松帆西路、松帆志知川両地区の共同墓地で、六面石幢の銘文には、貞治三年(1364年)に死者の冥福と衆生の安楽を願って建てられたと刻まれているらしい。
しかし、共同墓地は今や墓地としては使用されておらず、藪に埋もれてしまっている。この場所を最近人が訪れた形跡もない。
六面石幢は、崩れやすい砂岩製のため、風化を防ぐための屋根が付けられている。
六面石幢の東面には阿弥陀如来立像が彫られていて、時計回りに勢至菩薩立像、持錫地蔵菩薩立像、薬師如来坐像、密印地蔵菩薩立像、観音菩薩立像が刻まれている。
苦労した果てに、地元の人すら知らない六面石幢に辿り着いたことに高揚感を覚えた。約660年前の砂岩製の仏像が、まだ形を失わずに残っていることにも感動を覚えた。
藪に埋もれ、地元の方すら場所を知らないこの六面石幢を、果たして私の後に訪れる人がいるだろうか。
仏法が人の世の移り変わりにかかわらず存在するように、この場所を誰も訪れることがなくなり、この六面石幢が崩れ去っても、六面石幢を建立した人々の願いは、この世界のどこかに残っていることだろう。