観音寺本堂の背後には、鎮守の熊野神社と聖徳太子を祀る太子堂がある。
熊野神社は、紀伊にある熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社のいわゆる熊野三山の神様である熊野権現を勧請したものである。
熊野信仰は、平安時代には仏教と深く結びつ、それぞれの祭神は本地仏の現れとされた。
熊野本宮大社の祭神家都御子(けつみこ)神は、須佐之男命であるが、本地仏は阿弥陀如来とされ、熊野速玉大社の祭神伊邪那岐命の本地仏は薬師如来、熊野那智大社の祭神伊邪那美命の本地仏は千手観音とされた。
また本宮大社は西方極楽浄土、速玉大社は東方浄瑠璃浄土、那智大社は南方補陀落浄土とされ、熊野の地そのものが浄土であるという信仰が確立した。
補陀落は、南方の海の彼方にあるという観音菩薩が降臨する霊場を指すが、観音寺の山号が補陀落山、本尊が千手千眼観世音菩薩であることを思うと、この熊野神社の祭神は、伊邪那美命であろう。
熊野神社は、小さな祠であるが、彫刻は立派であった。ひょっとしたら、熊野神社の彫刻も中井権次一統の作ではないかと思った。
天台宗の寺院が聖徳太子を祀っていることは多いが、真言宗の寺院では珍しい。
聖徳太子は、日本に仏教を弘通した、日本仏教界の恩人である。日本の全仏教界が太子を祀っていてもおかしくはない。
本堂の南側には、弘法大師空海を祀る大師堂がある。境内案内図によると、以前ここは護摩堂であったようだ。
本堂の西側には、観音寺の本坊と庫裏がある。
入口にある山門は、江戸時代中期の建造物で、京都府指定文化財である。
この山門は、両袖付きの棟門で、屋根を段違いに見せる中国明朝の唐様建築であるが、関西では他に例がなく、長崎唐人屋敷の崇福寺や長州萩の東光寺などにその類例があるそうだ。
江戸時代中期にこの山門を作った住職が、中国文化に造詣が深かった証であろう。
本坊と庫裏は、寺の僧侶が生活する建物である。
本坊手前に補陀落山観音寺大聖院と刻まれた石柱があるので、ここは元々観音寺の塔頭の大聖院があった場所なのだろう。
本坊庫裏の前には、最近作られたと思しい斗藪庭(とそうてい)という庭があった。
弘法大師空海が詩文集「性霊集」で書いた「斗藪して早く法身の里に入れ」という詩文から名づけられたそうだ。
斗藪とは、衣食住への欲を捨てて心身を清浄にすることを指す。法身の里は、覚りの世界を指す。
出家して仏門に入ることを促す言葉である。
空海は、若いころ四国や吉野や紀伊の山中で修業し、山林斗藪の生活をした。
人間の生活の大半は、自分と家族の衣食住を維持するために費やされている。その衣食住を捨てるというのは、半ば人間を捨てることに等しい。
そう考えると、仏教というものは、かなり不自然で非人間的な教えであると言える。
だが不思議なことに、人間には、当たり前な人間の世界を抜け出したいという気持ちが芽生えることがある。
仏教も、自由を求める人間の精神の一つの現れと言えるのではないか。