11月11日に、丹波の史跡巡りを行った。訪れたのは、京都府福知山市である。
最初に福知山市中にある庵我(あんが)神社を訪れた。
庵我神社は、「延喜式」式内社の一つである。創建は詳らかではない。
だが、「続日本紀」の宝亀四年(773年)の条に、庵我神社に盗賊が入ったという記載があるので、創建はそれより古いだろう。
木造扁額には、中央に薬研堀で「正二位聖大明神」と彫られ、そこに墨が注されている。
また元亨三年(1323年)の銘がある。世尊寺流の能書家、藤原行房の書に成るという。
藤原行房は、後醍醐天皇に仕え、天皇が隠岐に流された時も従ったという。
元亨三年(1323年)は、後醍醐天皇の倒幕計画が露見した正中の変(1324年)の前年である。
ひょっとしたら、後醍醐天皇は、鎌倉幕府滅亡を祈念する意味で、行房に命じてこの扁額を書かせたのかも知れない。
そう想像すると、ちょっとしたロマンを感じる。
さて、庵我神社から南下し、同じ福知山市中にある臨済宗の寺院、明光山養泉寺を訪れた。
養泉寺には、境内いっぱいに萩が植えられている。9月には、一斉に白い花を咲かせる。別名、丹波萩寺とも呼ばれている。
開創は、暦応二年(1339年)である。禅僧孤峰覚明(後の三光国師)が開基した。
孤峰覚明は、後醍醐天皇の信仰篤く、天皇が隠岐から伯耆に上陸し、その後上京した際に、出雲雲樹寺から呼び寄せられたという。
当初京の南禅寺にいたが、名刹を好まず、病と偽って養泉寺に戻った。
現在の山門、本堂、鐘楼は、明治37年に再建されたものである。
境内の萩は、山門から観音堂に続く道の左右に並んでいるが、全部根元から刈り取られていた。満開の時に来てみたかった。
この寺の寺宝として伝えられているものとして、絹本著色光明本尊像図がある。
元々は、養泉寺の西南にあった浄土真宗の寺院、久宝寺の寺宝であったが、永正年間(1504~1521年)に久宝寺が廃寺となったため、天文二十年(1551年)の親鸞の命日に養泉寺に寄進されたものと伝えられている。
図には、右から「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光如来」「南無阿弥陀仏」と書いている。いずれも浄土教の本尊である阿弥陀如来に帰命することを指している。
各号の間に、インド、中国、日本で浄土教を弘めた高僧の像が描かれている。
画風から見て、室町時代初期の作であるという。福知山市指定文化財である。
境内の奥に、観音堂がある。
かつて、養泉寺近くの山中に、大仙寺という真言宗の寺院があった。室町時代には廃寺になり、観音堂だけが残った。
元禄四年(1691年)、福知山藩主の下知により、観音堂が養泉寺境内に移築された。
現在の御堂は、嘉永元年(1848年)に修築されたものである。
今日紹介した庵我神社と養泉寺は、両方後醍醐天皇とゆかりのある寺社である。
鎌倉幕府の滅亡と、南北朝の成立という激動の時代の形見といってもいいが、私が訪れたときは、しめやかに雨が降っていた。
時代の変遷や、人々の思いに関係なく、雨は降り続けている。
境内に暫し佇んで、時の経過に身を委ねた。