私が住む兵庫県に、新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言が発出されたのが8月20日である。
その前日の8月19日に、因幡の史跡巡りをした。
前回の美作の史跡巡りも台風で雨降りしきる中だったが、今回も雨の中の史跡巡りとなった。
まず訪れたのは、鳥取県八頭郡智頭町大字大背にある真言宗の寺院、高貴山極楽寺である。
智頭の町から国道53号線を岡山県方面に走り、JR因美線の那岐駅前から西に行った山間に寺院がある。
ここは、大化二年(646年)に法道仙人が開基した寺院であるという。
法道仙人と言えば、インドから伝来し、東播磨や丹波の数々の寺院を開いたとされる伝説の僧侶だが、そこから遥か離れた因幡の地にも、法道仙人が開基したという寺があるのだ。
また、平安時代には、弘法大師の弟子の真雅僧正が逗留したといわれている。
雨に濡れた参道の石段を登って行く。丈高い杉が生えていて、縹渺とした空気が流れている。
石段を登りきると、本堂が見えてくる。本尊は薬師如来であるそうだ。
本堂の裏手に回ると、高台がある。高台の上には、十一面観世音菩薩を祀る観音堂がある。均整の取れたお堂だが、最近建ったものらしい。
観音堂の奥に、更なる高台があった。石段を登って高台に上がると、宝篋印塔や五輪塔が多数あった。
奥に二基の宝篋印塔がある。「鳥取県の歴史散歩」を読むと、ここに法道仙人の墓と伝えられる石塔があるという。
二基ある宝篋印塔のどちらかだろうと思った。左奥の宝篋印塔の方が、独立して建てられ、整備されていてそれらしく見える。
しかし、「鳥取県の歴史散歩」に「法道仙人塚」として載っている写真の石塔と比べてみると、どうも形が違う。
右奥の宝篋印塔は、相輪の部分が落ちてしまっているが、隅飾の欠け具合が写真のものと一致する。
これがあの法道仙人の墓なのだろうか。法道仙人は7世紀の人物である。宝篋印塔は、日本では鎌倉時代から南北朝期にかけて製作された。この塔も、少なくとも法道仙人の死から600年以上後に建てられたものだろう。
播磨でも西播磨には法道仙人開基とされる寺は少ない。なぜそこから更に西の因幡に法道仙人開基とする寺があり、墓とされる石塔があるのか。謎である。
さてこの極楽寺の真向かいにあるのが、那岐神社である。
那岐神社の創建年代は不明だが、古くは因幡ー美作の間にある那岐山そのものを那岐大明神(奈義神)という神として祀っていた。
その那岐大明神を宇塚村内に勧請して拝んだが、天徳年間(957~961年)の初めに、現社地の背後にある後山山頂に社殿が遷された。
その後現社地に社殿が遷され、現在に至る。
神社は、明治5年(1872年)に那岐神社と改称された。
今の祭神は国常立神(くにのとこたちのみこと)と伊邪那岐神、伊邪那美神とされている。
国常立神は、「日本書紀」の最初に出てくる神で、日本の国土を神格化した神様である。
江戸時代まで祀られていた那岐大明神が、明治になって替えられたのだろう。
極楽寺と那岐神社と、どちらが先に創建されたのか分からないが、遠く那岐山を望むこの地に立つと、昔の人が神仏の加護をここで感じたのも分かる気がする。