栗渓神社の参拝を終え、同じ栗谷町にある黄檗(おうばく)宗の寺院、龍峰山興禅寺を訪れた。
興禅寺の前身は、天正十四年(1584年)の小牧長久手の戦いで戦死した池田輝政の兄、池田元助の菩提を弔うため、元助の乳母が岐阜城下に建立した龍峰山広徳寺である。
以後池田氏の国替えに伴い、三河吉田に移って広徳山龍峰寺に寺号を改め、姫路、岡山と移転した後、寛永九年(1632年)に鳥取に移った。
龍峰寺は、臨済宗妙心寺派の寺院だったが、鳥取に移ってから住職が黄檗宗への転向を願い出た。
藩主池田光仲はそれを認めたが、京都妙心寺がそれに反対した。
光仲の没後の元禄七年(1694年)に、龍峰寺の寺号を妙心寺に返納し、寺号を興禅寺に変えることで妙心寺と和解し、黄檗宗に転向することになった。
鳥取藩は、興禅寺のすぐ近くに龍峰寺を新たに建て、そこに池田輝政、忠継、忠雄の位牌を移し、菩提寺とした。
興禅寺は、光仲以降の池田家の菩提寺となった。
今の本堂は、文化十一年(1814年)に建てられた。国登録有形文化財である。本尊は、釈迦如来である。
山門の隣にある墓地には、鳥取藩きっての剣豪で、丹石流の使い手だった臼井十太夫正武、号本覚の墓がある。
臼井本覚は、寛永八年(1631年)十一月二十八日、藩主池田忠雄の君命により、鎗術をもって剛勇の名を響かせていた村山越中を、備中国成羽で一刀の下に討ち果たした。
本覚は、承応二年(1653年)二月十八日に死去した。
本堂の裏側にも墓地がある。
そこには、日本三大仇討の一つ、伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻の決闘)で見事弟の仇河合又五郎を討ち果たして本懐を遂げた渡辺数馬の墓がある。
鍵屋の辻の決闘は、寛永十一年(1634年)十一月七日に行われた。
数馬は、寛永十九年(1642年)十二月二日、三十五歳で死去した。
渡辺数馬の墓の近くに、新陰疋田流刀鎗二術の祖である猪田伊折佐(いだいおりのすけ)の墓がある。
猪田伊折佐は、寛永九年(1632年)に光仲に従って鳥取に来て、四百石の知行を得て藩士を指導したそうだ。
多くの門弟を育て、寛永十年(1633年)九月二十九日に死去した。
臼井本覚にしろ、渡辺数馬にしろ、猪田伊折佐にしろ、鳥取藩主は、武芸者を好んで登庸したようだ。
また本堂の裏には、江戸時代初期に作庭され、現在鳥取市指定名勝になっている興禅寺庭園がある。
興禅寺庭園は、非公開である。渡辺数馬の墓のある墓地から見下ろすしかなかった。
また興禅寺境内は、国の天然記念物であるキマダラルリツバメチョウの生息地である。
この辺りには、まだ豊かな自然が残されているようだ。
興禅寺の近くには、興禅寺が黄檗宗に転向した際に新たに建てられた臨済宗の寺院、龍峰寺がある。
本尊は薬師如来である。
ここには池田忠継や忠雄の位牌がある筈だが、ひっそりとしていて住職が常駐している寺のようには見えない。
小牧長久手の戦いから、池田家の菩提寺として続いてきた龍峰寺だが、今は実に静かな寺になっている。
戦乱の時代から続いた鳥取池田家の歴史も、今は静けさの中にあると感じた。