岡山県真庭市には、中世以降に地域の神楽の興行権を独占し、室町時代に作られた獅子頭を持つ神社が2つある。
祭神は、天津神の天児屋(あめのこやね)命である。
正面にある石造鳥居は、正徳四年(1714年)に津山藩主松平宣富が寄進したものである。
鎌倉時代には、源頼朝の命により、梶原景時が社殿を造営したという。
江戸時代に入ってからも、津山藩主の森家や松平家から崇敬された。
この神社には、天正二十年(1592年)の銘のある木造獅子頭と木造鼻高面がある。
本殿は、紅に塗られた唯一神明造である。
厳かな神威を感じる神社であった。
さて、ここから北東に進み、真庭市上河内(かみごうち)にある熊野神社を訪れた。
熊野神社の社叢の正面には、丈高い五本の杉が立っている。
真庭市指定天然記念物の熊野神社の五本杉である。この杉を見た瞬間、ここに神霊が宿っている気がした。
五本杉の中の最大の杉は、鳥居を潜ってすぐ左にある木だが、幹が大きく割れている。
幹の割れ目は、人が入れるほどの大きさである。長い年月を経た杉であると分かる。
熊野神社の創建は、永観二年(984年)に、美作国司藤原佐理(すけまさ)が紀州熊野三社から、当地に分霊を勧請して祀ったのが始まりとされている。
天津神社と熊野神社の両社家は、中世には、真島注連太夫座(ましましめだゆうざ)の太夫頭として、美作西6郡の社男務(さおつかさ)職を独占し、郡内の神楽の興行権を保持していたという。
本殿は大きな檜皮葺の春日造である。こんなに大きな春日造の本殿は珍しい。
古びて神寂びた本殿である。
中国山地の各地には、神楽が今も伝承されている。神楽は、日本の伝統芸能の元となったものである。神々に捧げるための芸能である。
中国山地には、今でも神々が息づいていると感じる。
そして熊野神社は、正面を五本杉に守られ、背後を山に囲まれた、古びたいい神社であった。
さて、熊野神社から西に行き、真庭市三崎にある五反(ごたん)廃寺の跡地に赴いた。
五反廃寺は、別名大庭(おおば)寺とも呼ばれていた。7世紀後半の白鳳期に建立された寺院である。
ここからは、平成5~7年の発掘調査により、岡山県内では例のない新羅系の軒丸瓦が発掘された。そして1町(約109メートル)四方の寺域を持ち、周囲に濠が巡らされていたのが分かった。
五反廃寺(大庭寺跡)のあった場所には、「白猪屯倉(しらいみやけ)碑」が建っている。
「日本書紀」欽明天皇十六年(555年)条に、天皇が蘇我稲目を吉備に遣わして、白猪屯倉を置いたという記事がある。
「続日本紀」の神護景雲二年(768年)条に、美作国人白猪臣大足(しらいのおみおおたり)や大庭(おおば)郡人白猪臣證人(しらいのおみあきひと)が、大庭臣への改姓が許されたという記事があることから、白猪氏の地元であるこの地が白猪屯倉跡とされ、建碑されたものである。
白猪姓を名乗っていたこの地の豪族は、白鳳時代に五反寺(大庭寺)を建立し、神護景雲に大庭姓を名乗った。
先日紹介した川東車塚古墳の被葬者は、この地の豪族だった大庭氏の祖先かも知れない。
地域の土豪が残した遺跡を見ると、その地域の歴史の実像が垣間見える気がする。