第一、二砲台には、28センチメートル榴弾砲が設置されていた。
榴弾砲は、弾道が放物線を描いて山形になるため、敵艦の上部を破壊するのに適していた。
また弾の落下速度が速ければそれだけ破壊力が増すので、標高が高い場所に据えられた。
第一、第二砲台の標高は、生石山砲台の中でも最も高い。
また、これらの砲台は、生石山砲台の中でも初期に建設されたので、煉瓦造りが多用されている。
第二砲台と第一砲台の間には、出石神社が祀られていた。
今回の淡路の史跡巡りの前に、但馬の史跡巡りで出石を訪れていたので、ここで出石神社に出会ったのが偶然ではないような気がした。
なぜ淡路の地に出石神社があるのだろうか。由来はこうである。
第11代垂仁天皇の御代に、新羅の王子・天日鉾(あめのひぼこ)が、八種の神宝(やくさのかんだから)を携えて但馬に上陸した。
天日鉾は、天皇から播磨の宍粟邑と淡路の出浅邑に住むことを許されたが、放浪の末、但馬の出石にたどり着き、八種の神宝をそこに祀った。これが但馬の出石神社の発祥だ。
天日鉾の曽孫の清彦が天皇に八種の神宝を献上したが、その中で出石の刀子という神宝が消え失せた。
その後淡路の地で出石の刀子が見つかり、島民がそれを祀った。それがこの出石神社の開創説話である。
次の但馬の史跡巡りでは、出石神社を訪れることになるだろう。兵庫県の南北に、出石神社があるのは面白い。
出石神社を過ぎて、第一砲台の横の散策路を歩くと、生石鼻灯台が屹立している。
淡路島の南岸を行く船を導く灯台だ。
そこを過ぎて第一砲台の南端に行くと、ここにも展望台がある。
この展望台からは、淡路島の南に浮かぶ沼島(ぬしま)や、その先の阿波の山々が見える。
生石公園の散策路からは、東の紀伊半島から西の徳島県までを見晴るかすことが出来る。ここは南海道を象徴するかのような場所である。
第一砲台は、生石山砲台の最も南側に設置された。紀淡海峡に近付く敵艦を最初に砲撃する砲台だった。
28センチメートル榴弾砲2門を備えた砲座が3つあった。榴弾砲は、山なりの弾道を描くので、砲座の前面にある胸墻は高く築かれていた。
上の写真が砲座で、その中にある円形の部分が砲床である。ここに榴弾砲が据え付けられた。写真の奥が海である。砲弾は奥の胸墻を越えて海に落ちた。
砲座の横には、砲側庫があった。
この第一砲台の砲側庫が、生石山砲台の中で、最も当時の原型を留めている設備ではないだろうか。
第一砲台の西側には、生石山堡塁の遺構がある。
堡塁とは、敵軍の攻撃から砲台などの軍事施設を防御するための設備である。
生石山堡塁は、生石山砲台の南側の海岸から上陸してきた敵軍から砲台を守るためのものであった。
生石山堡塁には、4門の臼砲が据え付けられた砲台があり、その外側に煉瓦製の塹壕があった。
この塹壕の内側に陣取った兵士が、堡塁に這い上がってこようとする敵兵に対し、機関銃や小銃による砲火を浴びせられるように設計されていた。
堡塁跡には、第四砲台跡から発見された26センチメートル加農砲の砲身が展示されていた。
かつて実際に第四砲台に備え付けられていたものだろう。
砲身内部には線条が入っている。一度も実戦で使われることがなかった大砲である。
さて、由良要塞跡から更に南側の洲本市佐昆真野谷には、縄文時代早期の遺跡である真野谷遺跡がある。
今はここに遺跡があったことを示す何物もない。縄文時代早期と言えば、今から約12,000年前~7,000年前になる。そんな昔からここで人が生活していたわけだ。
由良要塞は、実際には一度も実戦で使われなかった。
だが、大東亜戦争でもし本土決戦が行われたならば、ここも戦場になっていた可能性があっただろう。
アメリカの日本本土攻撃計画では、沖縄攻略後、米軍は執拗かつ圧倒的な爆撃と艦砲射撃の後に、九州南部と関東地方に大軍を上陸させる予定だった。そうなれば、日本は皇居を信州の松代に移して更に抵抗する予定だった。
関東と九州を制圧しても日本が屈服しなかったら、米艦隊はここを通過して関西を目指していたかも知れない。また核爆弾の更なる投下があっただろう。
そんな事態になっていたら、双方に凄まじい人的被害が出ていたことだろう。
私はこの冬に中公文庫「日本の歴史」第25巻を末尾まで読み進み、昭和天皇がいわゆる「聖断」に際して語った言葉を読んだ時、覚えず目から涙が噴き出てくる経験をした。
昭和天皇のあの「お言葉」の中に、日本のそれまでの歴史の意味が集約され、その後に日本人が生きていく意味が集約されている。
戦いの跡を見ると、自分の命が祖先からつながってきた意味を考えるようになる。