盛林寺の参拝を終えて北上し、宮津市宮村にある八幡山城跡を訪れた。
八幡山は、標高約165メートルの低山で、その中腹に猪岡八幡神社という神社がある。この神社の裏から城跡の遺構が始まっている。
猪岡八幡神社は、長和五年(1016年)に、丹後国司の藤原保昌が、石清水八幡宮から祭神を勧請したとされる古社である。
鳥居を潜ると、長い石段が続いている。参道の両脇に印象的な巨木が並んでいる。
参道を行くと、最後の石段があり、それを登ると神社の境内に至る。
静かな森の中に佇む古社という風情で、気持ちが落ち着く。
拝殿と本殿の周囲は、白い幕で覆われていて、全貌を窺がうことが出来ない。
拝殿の前で、これからの登山の無事を祈った。
本殿の右後ろから、八幡山城跡への登山道が始まっている。
八幡山城は、中世に築かれた城だが、いつの時代に誰が築いたのかは分かっていない。
山裾から山頂の本丸まで、曲輪が連続している。
その規模は、南北約720メートル、東西約400メートルで、丹後最大級の山城である。
天正六年(1578年)に丹後を攻略した細川藤孝、忠興は、天正七年(1579年)に八幡山城に入城した。
細川藤孝は、翌天正八年(1580年)には宮津城を築城して移っている。八幡山城は、僅かの間、細川氏の居城であった山城である。
暫く登ると、曲輪が連続する場所に至る。
又、連続する曲輪群の途中に、上に石碑と祠が設置された土塁があった。
その先にはさらに曲輪がある。
私は曲輪を通り過ぎて山頂を目指した。
八幡山城跡は、これから丹後国主になろうとする細川父子が、新たな領国の経営方針を練った城であろう。
主君信長の天下統一が見えてきた時代に、八幡山城から領国を見下ろした細川藤孝、忠興の胸中はどのようなものだったのだろうか。