内海八幡神社

 小豆島オリーブ公園の見学を終えて、国道436号線を東に行き、内海(うちのみ)の町中に入る。

 小豆島町立星城小学校から東に行った草壁本町の町並みの中に、大庄屋菅家屋敷跡の石碑が建っている。

大庄屋菅家屋敷跡の石碑

 江戸時代には、この周辺は草加部村と呼ばれていた。小豆島は幕府直轄領であり、草加部村は島内最大の村であった。

 大庄屋は幕府が村民支配のために置いた村役人で、法令の伝達、年貢の徴収に当たった。

 菅家は、草加部村の大庄屋であった。

大庄屋菅家屋敷跡の石碑

 菅家は、室町時代末期に小豆島に移住してきたそうだ。

 この石碑が建っている場所には、菅家の屋敷があった。安永五年(1776年)に建てられた、桁行十三間、梁間六間の堂々たる建物が建っていたようだ。

 今はその跡地に新しい民家が建ち並んでいる。土地にも歴史がある。

 ここから東に走り、香川県小豆郡小豆島町馬木にある内海八幡神社を訪れた。

内海八幡神社社頭

 内海八幡神社の祭神は、品陀和気(ほんだわけ)命すなわち第15代応神天皇である。

 小豆島内には、応神天皇が行幸したという伝承地が多数残っているが、内海八幡神社が鎮座する宮山もその一つである。

 内海八幡神社は、延長四年(926年)に石清水八幡宮から御分霊を勧請して創建された。

 鳥居の前にある灯籠は、寛文十年(1670年)に阪手村村君中が寄進したものである。

灯籠

「阪手邑」の銘

 村君とは、有力網元のことである。ここは古くから漁師町だったようだ。

 灯籠には、八幡大菩薩と刻まれている。神仏習合の時代に建てられた灯籠である。

 鳥居を潜って上り坂の参道を上がって行く。

参道

 参道の左右は、鬱蒼とした社叢である。

 内海八幡神社社叢は、ウバメガシの森であり、林床には耐寒性のヒトツバが生えている。

 瀬戸内海沿岸地域の典型的な植生であるウバメガシーヒトツバの群落は、生態上価値が高く、内海八幡神社社叢は、香川県指定天然記念物となっている。

内海八幡神社の社叢

ヒトツバ

 参道を上がると、内海八幡神社の随身門の前に至る。

内海八幡神社

 随身門の前には、蘇鉄が植えられている。温暖な瀬戸内海の神社であることを実感する。

随身門

随身

 随身門を潜ると、立派な拝殿が目に飛び込んでくる。瓦葺の新しい拝殿である。

 私が参拝した10月14日は、秋季例大祭の期間中だったようで、境内に幟が多数立っていた。

拝殿

拝殿の鬼瓦

拝殿

境内に立てられた幟

 本殿は銅板葺の三間社流造である。

 祭神の応神天皇と、その父母である第14代仲哀天皇と神功皇后が祀られている。

幣殿と本殿

本殿

本殿の扉

本殿の彫刻

 社殿の建立年代は不詳だが、最古の棟札として、慶長十年(1605年)のものが残っているという。

 境内に、上皇陛下の「いにしへの 人も守り来し 日の本の 森の栄を 共に願わむ」という御製を刻んだ歌碑があった。

上皇陛下の御製の碑

 御製(ぎょせい)とは、天皇が作った歌のことである。

 この御製は、平成3年の歌会始お題「森」で上皇陛下が作られた歌である。

 天皇が、国土や国民のことを思って作歌した御製は、「古事記」「日本書紀」「万葉集」にも複数載っている。

 この歌碑にある歌を、一般の国民が作ることはできない。我が国に君臨する帝王が作って初めて意味をなす歌である。

 最後の「共に願わむ」で、日本の森の繁栄を私と共に願おうと天皇が国民に呼びかけている。

 帝王が国民に呼びかけることで、初めてこの歌に荘重さが含まれるのである。

 毎年1月14日に皇居で行われる宮中歌会始は、天皇の御製から始まる。

 奈良時代に編纂された「万葉集」も、第21代雄略天皇の御製から始まっている。

 天皇が、国土の繁栄を国民と共に願う和歌の伝統は、奈良時代から現代の宮中歌会始まで、真っ直ぐにつながっている。

 応神天皇が行幸した伝説の残る、内海八幡神社の社叢の中に建つ御製の碑は、いかにもその場に相応しいと感じた。