南あわじ市 正福寺 萬勝寺

 亀岡八幡神社の参拝を終え、本庄川沿いに集落の細い道を東進する。

 しばらく行くと、本庄川にかかる薬師橋という橋に至る。

薬師橋

 この橋の北西側に、かつて兵庫県指定文化財の木造薬師如来坐像を祀っていた正福寺の跡がある。

 石積みの塀が目印である。ここは地名で言うと、南あわじ市阿万上町になる。

正福寺の跡

 敷地の南西にある石塀の空いた場所から、境内に入ることが出来る。

境内入口

 正福寺は、理由は分からないが今は廃寺になっている。

 境内の北東側に、旧本堂の礎石が残っている。境内の北西に、新しい平屋の建物があるが、これは宗教的な建物ではないだろう。

旧本堂の礎石

境内北西の建物と背後の葛原山

 正福寺には、建長元年(1249年)に、この辺りの豪族だった平兼友の発願で、京の仏師・善慶が彫った木造薬師如来坐像が祀られていた。

 像高85.7センチメートルで、全体的に黒色の、唇の朱色が目立つ、どっしりした像であるらしい。

 正福寺はかつては背後の葛原山上にあったが、海上往来の船や山間往行の人馬に災いがあるということで、この地に移転したという。

境内の庭園跡

 何らかの理由で正福寺は廃寺となり、木造薬師如来坐像は、亀岡八幡神社の西隣にある真言宗の寺院、宝樹山萬勝寺に遷された。

 萬勝寺は、立派な本堂を有する古い歴史を持つ寺院である。

萬勝寺

 萬勝寺の開基は、建保三年(1215年)に、京都西山栂尾寺の明慧上人が諸国行脚の砌、当地に立ち寄り、行基菩薩作の金剛界大日如来坐像をここに安置したことに始まる。

明慧上人の供養塔

 明慧上人は、寛喜四年(1232年)まで萬勝寺に住み、ここで遷化したという。

 貞永元年(1232年)に、当地に移って来た亀岡八幡神社境内に、萬勝寺本尊の金剛界大日如来坐像の模像を祀る本願坊が建てられた。

 延宝二年(1674年)に、亀岡八幡神社本地仏である阿弥陀如来像が同社境内に祀られた。

本堂

 安永年間(1772~1780年)に萬勝寺堂宇は火災で焼失したが、天明元年(1781年)に再建された。

 明治3年の神仏分離令により、亀岡八幡神社境内の本願坊と阿弥陀如来像は撤去されることになり、それぞれを萬勝寺が引き取ることになった。

本堂正面

蟇股の彫刻

 今では、正福寺の木造薬師如来坐像も安置されているわけだから、歴史ある仏像が多数祀られた寺院ということになる。

本堂内陣

 境内には、若き日の弘法大師の姿である修行大師像があったが、その隣の観音菩薩地蔵菩薩像の周りに、「お大師さまのファンクラブ」と染められた幟が立てられていた。

修行大師像

「お大師さまのファンクラブ」の幟

 弘法大師のような遥か昔の沙門のファンクラブというと、少しおかしい気がするが、民間信仰の中に生きる「お大師さま」は、今も高野山奥の院で生きたまま禅定に入り、衆生を救うために瞑想を続けているのだから、ファンクラブがあってもいいような気がする。

 念仏系の宗派では、途方もない過去に悟りを開いた阿弥陀如来が、自分の名前を唱えた衆生を浄土に迎え入れるという本願を立てたことを根拠に、南無阿弥陀仏と唱えれば誰もが極楽浄土に往生出来るという教えを弘めたが、阿弥陀如来は、歴史上実在の人物ではない。

 弘法大師は、「虚空尽き衆生尽き涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」と語って、この宇宙と人々と悟りの世界がなくなれば、全ての人々を救うという我が願いもようやく尽きようという、人類史上類を見ない途方もなく巨大な願をかけた人である。逆に言えば、この宇宙が存在する限り、弘法大師の願いは生きていることになる。

 ここまで来ると、弘法大師空海は、歴史的人物でありながら、阿弥陀如来に匹敵するような時空を超えた仏のようである。

 修行大師の像を眺め、「南無大師遍照金剛」と唱えれば、お大師さんが側で見守ってくれているような気になる。