7月17日に備前の史跡巡りを行った。源平藤戸合戦の古戦場を巡る旅となった。
寿永三年(1184年)二月に、一の谷の合戦で大敗した平氏は、水軍に頼って西に逃れ、備前国藤戸の地に拠った。
現在、藤戸と天城の間には倉敷川が流れているが、ここは寿永の当時はまだ所々に浅瀬のある海峡であった。児島半島は、当時はまだ島だった。
倉敷川が流れる辺りは、当時の藤戸海峡の最深部であった。
源氏は天城に陣を置き、藤戸に陣を布いた平氏軍と藤戸海峡を挟んで対峙した。
しかし、水軍を持たない源氏方は、平氏方に手も足も出ず、攻めあぐねていた。
源氏方の武将佐々木三郎盛綱は、地元の若い漁師から、藤戸海峡の中で、対岸に馬で渡ることが出来る浅瀬があることを聞き出した。
盛綱は、敵陣一番乗りの戦功を同僚に取られることを恐れ、秘密保持のため漁師を殺してしまった。
盛綱は、漁師から聞いた浅瀬を馬に乗って渡り、敵陣に乗り込んだ。海を渡る盛綱を見た残りの源氏方も盛綱に続いて藤戸海峡を渡り、平氏の陣に続々と攻め込んだ。
平氏はまたしても源氏の奇策によって敗れ去った。
平氏が陣を布いた藤戸にある真言宗の寺院、補陀落山藤戸寺には、佐々木盛綱所用とされる鐙や、盛綱の木像、岡山出身の日本画家森安石象が昭和時代に描いた「源平藤戸合戦大絵図」がある。
上の写真が、「源平藤戸合戦大絵図」である。絵の右上が源氏陣、左下が平氏陣、海峡を一騎で渡っているのが佐々木盛綱である。平氏陣の右下に藤戸寺が描かれている。
藤戸寺は、岡山県倉敷市藤戸町藤戸の丘の上にある。この寺の創建は古い。
神護景雲二年(705年)、この辺りがまだ海だった頃、藤戸海峡から千手観音の霊像が浮かび出で、この地に奉安された。
その約30年後の天平年間、行基菩薩がこの地を訪れ、千手観音像を本尊として藤戸寺を創建した。
本堂には、その千手観音像が祀られているのだろうか。
藤戸合戦での功労により、佐々木盛綱は頼朝から児島の地を与えられた。
盛綱は、源平合戦終息後、合戦で荒廃した藤戸寺を再興した。そしてこの寺で、源平藤戸合戦の戦没者と、自分に浅瀬の場所を教えてくれた漁師の菩提を弔うため大法要を行った。
謡曲「藤戸」では、児島の領主となった盛綱のもとに漁師の母親が訪れ、亡くなった息子を返してくれと訴えた。
それを哀れんだ盛綱は、母親を慰め、漁師を供養する仏事をここで行った。
漁師の霊が盛綱の前に現れ、自分が命を奪われた最期の場面を語ったが、今は供養を受けたおかげで恨みも晴れ、成仏したと語って消え失せた。
藤戸寺は、謡曲「藤戸」の舞台でもある。
本堂の裏には、寛元元年(1243年)十月十八日に源平将士供養のために建てられたとの銘のある、石造藤戸寺五重塔婆がある。
総高3.55メートルで、頂上の相輪は後補であるが、後は建造当時のもので、鎌倉時代の古式を残している。岡山県指定重要文化財である。
初重塔身の四方仏の表現が優れている。
五重塔婆は花崗岩製だが、風化も進んでいて、銘文は読み取れなかった。
藤戸、天城の地は、源平合戦の古戦場である。しばらくは寿永の昔に帰って、史跡を巡ることになるだろう。