入佐山 円覚山宗鏡寺

 明治館から外に出て、東に向くと、歌枕として名高い入佐(いるさ)山が見える。

入佐山

 入佐山は、月が入る名所として古来から和歌に詠われてきたが、元々は出石神社のある豊岡市出石町宮内にある此隅山に続く山嶺を指していたとされている。

 天正二年(1574年)に山名氏が居城を此隅山から有子山に移し、沢庵和尚が今の入佐山の中腹に投淵軒を建てて入佐山僧と称してから、入佐山の名称も今の入佐山の上に移った。

入佐山公園の入口

 入佐山は、標高約50メートルの小山で、山内には入佐山を詠んだ歌を刻んだ歌碑が点在し、あちこちに古墳もある。気楽に散策できる公園になっている。

入佐山の登り口

 また麓には、真言宗の寺院、光明院がある。江戸時代には入佐山に祀った石仏を巡る四国八十八か所参りが盛んであった。今も入佐山公園内には、石仏が点々と祀られている。

石仏

 天正元年(1573年)に出石に生まれた沢庵和尚は、10歳の時に地元の浄土宗唱念寺で得度し、14歳の時に唱念寺を出て禅門に転じ、出石の宗鏡寺(すきょうじ)に入った。

 慶長八年(1603年)、堺の古鏡禅師に参じ、翌年32歳で沢庵の号を授かり法嗣となった。

 35歳で大徳寺首座になったが、3日で「由来吾是水雲身」と唱えて、堺にあった自分の寺に戻った。

入佐山の歌碑

 沢庵は、豊臣秀頼細川忠興に招聘されたが応じなかった。故郷の出石に戻って荒廃した宗鏡寺の再興を図ることを望んでいた。

 沢庵は、入佐山中腹に投淵軒という四畳半一間の庵を建て、和歌や漢詩を嗜む質素な生活を送りながら、宗鏡寺を再建した。

 入佐山で過ごした時代が、沢庵が最も自分らしく生きた時代だろう。

沢庵の歌碑

 入佐山公園には、沢庵が詠った歌の歌碑もある。その中の一首は、「山をいでて うき世をめぐり また山に 入佐の月や 身の類なる」というものである。

 一読すると、入佐山近くの宗鏡寺を出てまた入佐山に戻ってきた自分を月に例えたように読めるが、そんな表面上の意味よりもっと深い意味があるように感じる。

 禅でも密教でも、本不生ということをよく言う。文字通り本から生まれていないという意味だ。

 梵字の阿は、一字でこの宇宙の全てを表すとされているが、サンスクリット語では阿字は本不生という意味を持っている。真言密教で言う阿字本不生である。

 密教では、阿字一文字で、この宇宙は本から生まれていないのと同じだと教えているわけだ。表面上の現象は、あってもなくても同じである。

 沢庵の歌も、堂々巡りをする入佐山に入る月に仮託して、本不生ということを歌ったのだと思われる。

 入佐山の山頂には、展望場所があり、そこから西に広がる出石の町並みを見下ろすことが出来る。

入佐山から眺める出石の町並み

 この美しい景色も、いずれは無くなる。我々が当然の前提として考えている地球もいずれ無くなるのだから、地球上で行われていることは、全て無意味だと考えることも出来る。やはりこの世は本不生だ。しかしそれでは単なるニヒリズムである。

 仏教は、本不生のこの世界で、人が安心して生きる道を追求する宗教である。沢庵が修行した活殺自在の臨済禅もそうだ。答えはないかも知れないが、生きて問うことをやめてはならない。

 入佐山の近くの豊岡市出石町東條にあるのが、沢庵が再興した臨済宗の寺院、円覚山宗鏡寺である。

円覚山宗鏡寺

山門

 沢庵は、入佐山で質素な生活をしていたが、寛永四年(1627年)に発生した紫衣(しえ)事件で出羽に流されることになった。

 紫衣とは、朝廷から高僧に下賜される法衣、袈裟のことである。紫色は古代から高貴な色とされている。紫衣の着用には天皇の勅許がなければならなかった。

 しかし徳川幕府は、朝廷の専権に属する紫衣の勅許に制限を加えようとした。

本堂

 後水尾天皇は、これをきっかけに退位した。臨済宗の僧侶は幕府の措置に猛然と抗議したが、その中心人物が沢庵だった。

 幕府に楯突いた沢庵は、徳川秀忠の命で出羽上ノ山に流罪となった。

 しかし秀忠の死によって恩赦となり、家光の帰依を受けた沢庵は、品川に東海寺を開山し、そこで没した。

 ところで沢庵と言えば、沢庵漬けである。

本堂内部

本堂の仏像

沢庵漬けを漬ける僧侶の襖絵

 沢庵漬けは沢庵が考案した大根の漬物である。その発祥は、投淵軒での質素な生活を示すものだとか、東海寺で家光に差し出したものだ、などといった諸説がある。

 沢庵の名を不朽のものにしているのは、この沢庵漬けだろう。

本堂の庭

 本堂南側にはお庭が開けている。中央の石は、釈迦の涅槃の姿を表し、周囲の石は釈迦の周りに集まった弟子を表しているそうだ。
 庭の上には楓が枝を差し交している。紅葉のころには、縁側から美しい景色を眺めることができることだろう。
 この庭園の南側には、鐘楼が建つ。この梵鐘は、願いを一つ思い浮かべながら衝くとそれが叶うことから、願いの鐘と呼ばれている。

鐘楼(願いの鐘)

 本堂の北側には、沢庵和尚が築いたとされる不識園という池泉式庭園がある。

不識園

 この不識園は、兵庫県指定文化財となっているが、別名鶴亀の庭と呼ばれている。池の形は鶴の姿を模しており、池に浮かぶ島は石を巧みに組み合わせて亀の形を模している。上の写真の島がそうである。亀島と呼ばれている。沢庵和尚の遊び心が詰まった庭だ。

 沢庵が過ごした入佐山の投淵軒は今はないが、宗鏡寺境内に投淵軒という茶室のような粗末な家が建てられている。ここでいう粗末は、誉め言葉である。昭和43年に再建された。

投淵軒

 投淵軒の前には、出石藩仙石氏3代目藩主政辰と5代目藩主久道の墓がある。政辰は弘道館を築いた名君である。

仙石政辰の墓

仙石久道の墓

 仙石家の藩主も、屹度沢庵和尚の生き方を慕っていたことだろう。

 投淵軒の奥には、出石藩主小出氏6代目英安(ふさやす)の墓がある。

小出英安の墓

 宗鏡寺は、歴代出石藩主の菩提寺であった。

 また境内には、沢庵が植えたとされる侘助がある。

侘助

 この侘助は、小出公の家臣志野侘助朝鮮半島から持ち帰ったものと言われている。

 秀吉の朝鮮出兵に際し、志野侘助は、加藤清正の軍に配属され、半島で戦った。

 志野は帰路釜山の可然山にてこの椿を見つけ、珍種として持ち帰り、小出公に献上した。

 小出公は参禅の師沢庵にこの椿を献上した。沢庵はこの椿を侘助椿と名付けて手ずからここに植えたという。

 小出英安の墓の奥に沢庵の墓がある。

沢庵和尚の墓

 墓と言っても、沢庵は品川の東海寺で亡くなって、遺骨はその地に葬られているから、宗鏡寺の墓は、墓というより供養塔と言ったらいいだろう。

 生前の沢庵は、自分の墓はいらないと言っていたそうだ。本不生であるなら、墓があっても無くても同じことである。

境内の石の道

 超俗の高僧である沢庵が、紫衣のような僧侶の世俗的権威を守るために戦ったというのは、どうも矛盾しているように思えるが、沢庵は何よりも幕府の権力が仏教の世界に容喙するのが許せなかったのだろう。

 私は最近人生で最も大切なものは、勇気と意地ではないかと考えるようになった。これがない人間は、しっかり地に足をつけて生きることが出来ない。

 臨済禅も、ただただ悟りすましているだけの僧になることを諫めている。

 沢庵の生き方は、本不生の世界にも、人の意地が必要であることを教えてくれている。