出石家老屋敷から西に歩くと、現存するものとしては近畿地方最古の芝居小屋である出石永楽館がある。地名で言うと、豊岡市出石町柳にある。
永楽館は、明治34年(1901年)に開館した。歌舞伎だけでなく、剣劇、新派劇や寄席などが行われ、但馬の大衆文化の中心を担った。
しかし、戦後になって映画の上映が興行の中心となり、更にテレビが普及して娯楽が多様化する中で利用客が減り、昭和39年(1964年)に閉館となった。
永楽館は閉館後、朽ち果てるまま放置されていたが、次第に地元からかつての永楽館を懐かしむ声が上がるようになった。大改修の上、平成20年(2008年)に実に44年ぶりにリニューアルオープンした。
今では、かつてのように歌舞伎や寄席などの大衆演芸が演じられている。
永楽館は、改装された際、かつての部材がそのまま使われた。あちこちの板に歌舞伎俳優の名前などを書いた昔の落書きが残っている。
さて、劇場内に入ると、江戸時代から明治時代にかけての劇場そのままの作りが残っていることに感動した。
正面(南側)に舞台があり、その手前には平桟敷がある。
舞台に向かって右側(西側)には、西桟敷があり、左側(東側)には花道と東桟敷がある。
花道は、舞台下手(舞台の向かって左側)と鳥屋(とや)を結ぶ通路である。鳥屋は、花道の突き当りにある揚幕奥の小部屋で、室内には奈落(劇場の地下)に降りることが出来る階段がある。
俳優は自分の出番の前に、鳥屋で精神を集中させ、出番がくるや客席の中を通る花道を歩いて舞台に向かう。
ところで、二階の客席である升席の上には、昭和レトロ感満載な看板が掛かっている。
看板を眺めると、全て地元出石の商店のものであることが分かる。この看板は、昭和39年の閉館時に掲げられていた看板をそのまま掲げているらしい。昭和30年代にタイムスリップしたような気分を味わわせてくれる。
二階の北、東、西の三方にも客席がある。
二階から見下ろすと、舞台がよく見える。それでもこの劇場は、一階の平桟敷から見物した方が良さそうだ。
二階北側の客席は、舞台に向かって前方が傾斜している。前の座席の人の頭が、後ろの座席の人の邪魔にならないための配慮だろう。
舞台中央には、直径6.6メートルの廻り舞台がしつらえてある。
舞台の地下(奈落)には、人力で廻り舞台を回す仕掛けがある。舞台の下手奥に奈落へ降りる階段がある。
階段を降りて舞台下に回ると、廻り舞台の仕掛けを見学することが出来る。
この横木を人力で押して、舞台を回転させるわけだ。
また、廻り舞台の中に、舞台の一部が上下する仕掛けがある。セリと呼ばれる。上の写真左奥に、セリを人力で上下させる装置が写っている。セリを用いて、俳優を地下から舞台に上げたり降ろしたりすることが出来る。
また、舞台と鳥屋の間は、地下道で結ばれている。
舞台奥の二階には、俳優が準備する化粧部屋やカヅラ場がある。ここで準備した俳優が、地下通路を通って鳥屋に出て、そこから花道に登場するのだろう。
舞台の上手には、太夫座、囃子場がある。
上の写真の二階が太夫場で、一階が囃子場である。
歌舞伎の義太夫節は、小説で言う地の文のようなもので、役の心理を解説したり、状況を描写したりする文章が節をつけて唄われる。
役者が義太夫節に合わせて演技をしたりする。まるでミュージカルのようだ。
囃子場は、奏者が三味線や太鼓などを用いて劇中のBGMを演奏する場である。
映画もミュージカルもオペラもそうだが、劇に音楽はつきものである。
舞台から客席を眺めると、自分が満場の注目を浴びているような気分になる。
永楽館は、江戸時代から続く大衆芸能の雰囲気を味わわせてくれる貴重な場所である。
私は農村部の神社を巡って、神社に設置された農村歌舞伎舞台を数多く見学してきたが、多くは幕末から明治にかけて建てられたものであった。
明治時代には、娯楽と言えば芝居だった。それが映画の登場で下火になり、ラジオとテレビの登場で娯楽はさらに多様化し、芝居を観る人は激減した。
今ではスマートフォンが人口の大半に普及し、動画サイトやオンラインゲームが娯楽の中心になっている。
時代と共に、娯楽から人の匂いが薄れているように感じる。舞台裏の化粧部屋やカヅラ場を見ると、ふんだんに化粧を施した生々しい人間が演じる仇討ちや色恋沙汰やお家騒動の演目が思い浮かぶ。生の人間が義太夫節を唄い、囃子を演奏して盛り上げる。
時代が移っても、手作り感のあるものは滅びることはない。芝居が今も命脈を保っているのは、そこに娯楽の原点があるからだろう。