洲本城跡 その1

 洲本八幡神社の東側には、寛永八年(1631年)の「由良引け」以後に徳島藩によって築城された洲本城跡の石垣と濠が残っている。

 濠と石垣に囲まれて、洲本税務署や検察庁、裁判所の建物がある。江戸時代の洲本の政庁が、今は淡路島の司法の中心になっている。

洲本城跡の石垣と濠

洲本城跡内の検察庁と裁判所

 三熊山北麓にある江戸時代の洲本城跡は、「下の城」と呼ばれている。明治時代になって、洲本城の建物は打ち壊され、石垣と濠だけが残された。

 検察庁と裁判所には、石垣の上に架けられた橋を渡った先にあるが、この橋の前に立つと、丁度背景の三熊山山頂に建つ旧洲本城跡の模擬天守が正面に見える。

 検察庁の東隣には、淡路島内から発掘、収集された歴史資料を展示する洲本市立淡路文化史料館がある。

洲本市立淡路文化史料館

 洲本市立淡路文化史料館が建つ場所は、洲本城の御殿が建っていた場所である。昨日紹介した洲本八幡神社の金天閣も、江戸時代にはここに建っていたことだろう。

 洲本市立淡路文化史料館には、今まで淡路の史跡巡りで紹介してきた、淡路島内の遺跡から発掘された鏡、製塩土器、石器や、洲本城、城代稲田氏に関する歴史資料、珉平焼きなどの陶芸作品、淡路で育った南画家直原玉青の作品などが展示されていた。

旧洲本城の1/250模型

 また、淡路で盛んな人形浄瑠璃や、淡路の祭りで曳かれる船壇尻も展示されていた。

 館内のほとんどで写真撮影が禁止されていたので、ここで紹介は出来ないが、直原玉青の作品「禅の牧牛図」が最も印象に残った。

 淡路文化史料館の向かい側に建つ念法寺という新宗教念法眞教の寺院は、洲本城代稲田氏の向屋敷跡である。洲本文武学校跡もこのあたりにあった。

稲田氏向屋敷跡

 稲田氏向屋敷は、明治3年5月13日に勃発した庚午事変で真っ先に攻撃された場所である。

 庚午事変については以前も紹介したが、これは明治2年の版籍奉還がもたらした時代の変動の一つの例である。

 版籍奉還に伴って藩の領地と領民は朝廷(明治政府)に返還され、旧藩主は華族藩士は士族という身分になった。

洲本城跡北東の櫓台の石垣

 徳島藩主蜂須賀氏は阿波と淡路の二か国を領有していたが、淡路一国は徳島藩家老稲田氏が洲本城代となって統治していた。

 版籍奉還の際に、稲田氏の家臣は、士族となった蜂須賀氏家臣よりも一段低い卒という身分にされ、俸禄も低くされた。

洲本城跡北東の櫓台の石垣

 これに憤慨した稲田氏側は、明治政府に淡路一国の徳島藩からの独立を訴えた。

 蜂須賀氏家臣はこれに危機感を覚え、明治3年5月13日早朝から、大砲などで武装した約800名の藩士により、洲本城下の稲田氏の拠点を襲撃し、17名の稲田氏家臣を殺害した。これが庚午事変である。

 庚午事変に関わった蜂須賀氏家臣は断罪されたが、稲田家家臣も政府から北海道への移住を命じられた。

櫓台の石垣

 明治9年、淡路は兵庫県編入された。淡路は元々四国と同じ南海道の国であり、江戸時代には徳島藩に所属していた。紀伊、四国と同じく、島内では真言宗が盛んである。淡路は基本的に四国の文化圏に所属している。

 庚午事変がなければ、淡路は徳島県の一部になっていた筈だ。

 淡路文化史料館の前には、稲田家家臣の妻として小説やドラマに登場したお登勢の像が建っている。

お登勢の像

 庚午事変は、日本が封建制から国民国家に移行する歴史の狭間で生じた悲劇である。

 洲本城跡の東側には、海が迫っている。洲本大浜という砂浜がある。

洲本大浜

 大浜に静かに寄せる波の音が聴こえる。
 庚午事変の際も、同じようにこの砂浜に波が寄せては返っていたことだろう。

 人の世の変動と、寄せては返す波との間に、何の違いがあるのか考えてみた。