安藤井手 

 鳥取県八頭郡八頭町郡家(こおげ)には、八頭町の町役場がある。

 ここは、江戸時代後期に郡家の発展に尽くした地元出身の豪農安藤伊右衛門の屋敷跡である。

 安藤伊右衛門は、毎年のように水不足に悩む郡家の農民を救い、かつ新田開発をして食糧増産を図るべく、全私財を擲って八頭町安井宿前の八東川取水口から郡家までの用水路を建設した。これを安藤井手という。

 大正十三年、地元の有志らの手により、安藤伊右衛門の屋敷跡に顕彰碑が建てられた。

安藤伊右衛門顕彰碑

石碑の碑文

 顕彰碑は、大理石製の立派なものである。背面に伊右衛門を顕彰する碑文が刻まれている。

 安藤伊右衛門が主たる出資者となって安藤井手の開発が始まったのは、文政三年(1820年)である。

 3年の歳月と72,229両(平成24年の物価基準で約26億円)の資金を費やして、文政六年(1823年)に安藤井手は完成した。

 資金は藩からではなく、全て伊右衛門を始めとした豪農の出資者から出された。

 その代わり、藩は出資者に新田高の2割と、井手の利権として年貢の2.5割を与えた。

 水路の建設予定地には、神社、墳墓、住宅があり、これらを移転させながら工事が行われた。

 しかし、移転を余儀なくされた地区の反対は強硬で、伊右衛門は久能寺のあたりで水路の路線変更をせざるを得なくなった。

 そのため、通り谷という丘陵地の下に、穴井手(トンネル)を掘って用水路を通すことになった。これが難工事であったそうだ。

通り谷穴井手跡に建つ通り谷弁財天社

 通り谷穴井手工事は、水路掘削中に岩盤が崩落したり、坑内に浸水したり、難儀を極めた。 

 そこで、水利に霊験あらたかな京都伏見の弁財天を勧請し、弁財天社を建てたところ、無事に工事を終えることが出来たという。

 通り谷の谷間には、今は国道29号が通過している。峠道の頂付近に通り谷弁財天社がある。この峠の下に、穴井手が通されたのだ。

通り谷弁財天社鳥居

参道

 通り谷弁財天社の社殿は、ささやかなものである。ここには、弁財天だけでなく、安藤伊右衛門命も神様として合祀されている。伊右衛門は昭和56年から祀られているそうだ。

通り谷弁財天社社殿

 通り谷弁財天社の境内に、通り谷穴井手跡のモニュメントがある。

通り谷穴井手跡のモニュメント

 通り谷穴井手は、戦後の国道付け替え工事と、近くに建設されたゴルフ場の防災工事に伴い、新トンネルに切り替えられ、現在は使用されていない。

穴井手跡の水

 安藤井手の完成で、郡家地区の水不足は解消され、多くの新田が開発された。

 江戸時代までは、安藤井手の出資者は、井手から上がる利益の還元を受けていたが、明治維新後安藤井手の利権(井手敷という)は宙に浮き、出資者と井手を利用する水利地主との間で紛争が起こった。

 しかし明治38年に出資者と水利地主との間で和解が成立し、水利地主が出資者に一時金を支払うことで、以後は無償で井手を利用できることになった。

 史跡巡りを始めて、普段何気なく眺めている農業用水路や溜池の重要性に気付くようになった。

 人間が生きていくためには、食料とエネルギーが必要である。それを得るために、歴史上人々は大きな苦労をしてきた。

 戦跡や城跡や寺社といった史跡もいいが、こうした「食べること」に直結する史跡も、見逃すことは出来ない。