下船岡神社の周辺には、下船岡の落ち着いた町並みが広がる。
船岡は、大江川と見附川が合流する場所で、水陸交通の要衝として栄えた地である。
鳥取藩池田家の家老乾(いぬい)氏の知行地となり、陣屋が置かれた。
下船岡には古い民家が多くあるが、陣屋跡がどこにあったかはっきり分かっていない。
下船岡神社の南側が、御屋敷跡で、その辺りに陣屋があったという説もある。
乾氏は、陣屋を中心に町政を行った。6代乾長孝は、博学な人格者で人望を集め、家老として藩政の刷新に努めたという。
その乾氏の墓地が、下船岡の背後の丘陵の中にある。
案内板に従って歩いて丘陵の中に入っていくと、林の中にひっそりと乾氏の墓地があった。
この墓地には、6代長孝(ながたか)、7代長徳(ながのり)、10代徳脩(とくしゅう)、11代徳(とく)夫子の墓と、8代長胤(ながたね)、9代長明(ながあき)の額髪塔がある。
6代長孝の墓石には、長孝が初代長次を偲んでその偉業を誌した碑文が刻まれている。
初代乾長次は、天文十四年(1545年)に摂津国に生まれ、当初は室町第13代将軍足利義輝に仕えていたが、その後池田恒興に仕えるようになった。
姉川の合戦や花隈城の合戦で活躍し、小牧長久手の合戦では、敵陣に突っ込もうとする池田輝政を諫め、結果的に輝政の命を救った。
長次は以降池田家に重用され、池田輝政が姫路藩主になって今に残る姫路城を築いた時も、姫路についてきた。
池田輝政は、家康の外戚となったため、一族に莫大な所領が与えられ、一時は、姫路藩、岡山藩、鳥取藩、洲本藩の藩主を輝政の一族が占めた。
輝政は「西国の太守」「西国将軍」と言われた。姫路城は、言わば西の江戸城のような威容を誇った。
長次は、岡山藩主になった輝政の六男池田忠雄について岡山藩家老となった。
長次の子、2代直畿(なおき)は、忠雄の長男光仲が鳥取藩主になるに従い、岡山藩から鳥取藩に移り、鳥取藩家老になった。乾氏は、以後代々鳥取藩池田家の家老職につき、船岡の地を治めた。
池田輝政の子供たちは、岡山藩、鳥取藩、洲本藩だけでなく、赤穂藩や山崎藩の藩主にもなった。
私の住む西播磨だけでなく、隣接する備前や鳥取も、江戸時代初頭には、池田輝政一族の所領だったわけだ。
この池田家の黄金時代を象徴するものとして、今も残る国宝姫路城天守がある。
乾氏もそうだが、各藩で池田家を支えた家老たちにも、興味を覚える。