成田山青龍寺

 安藤伊右衛門顕彰碑から北に約1.5キロメートル行った鳥取県八頭郡八頭町下門尾(しもかどお)にある真言宗の寺院、成田山青龍寺に赴いた。

青龍寺への参道

 青龍寺と言えば、弘法大師空海が、唐の長安で師の恵果和尚から真言密教の奥義を授けられた寺院と同じ名である。

青龍寺

 青龍寺は、和銅三年(710年)に行基菩薩が開創した勅願寺であるという。古くは花喜山浄光寺と呼ばれていた。

 寺伝によれば、源頼朝に追われた源範頼が、鎌倉から逃れてこの寺に入り、海雲阿闍梨の弟子になり、教頼法師と呼ばれるようになったという。

 その子範国は鎌倉幕府に許され、土師郷一帯300丁歩を賜り、爾来範国の子孫が寺を継いでいる。

青龍寺本堂

 天正九年(1581年)、秀吉の因幡攻めの際、この寺は堀秀政に攻撃され、堂宇悉く焼け落ちた。

 本尊の聖観音菩薩像と脇侍仏の多聞天立像、持国天立像は、外に持ち出されて難を逃れた。

 その後寺は再建され、明治になって千葉成田山不動明王を勧請して、成田山青龍寺と称するようになった。

 多聞天立像、持国天立像は、鎌倉時代末期の作であり、持国天像の胎内からは、「正安三年(1301年)正月二十五日 隆円」という造像の銘が見つかっている。

聖観音菩薩像と多聞天立像、持国天立像

多聞天立像

持国天立像

 この二体の脇侍仏像は、彫が鋭く、鎌倉時代後期の特色を残しているそうだ。彫刻史上貴重なものとして、国指定重要文化財になっている。
 本尊と脇侍仏は、今では宝物殿に祀られている。 

 本堂は正面引き戸が開いていて、中に入ってお参りすることが出来た。

本堂

 お堂に上がり、燈明を着け、線香を立てて手を合わせた。本堂正面には、最近彫られたと思われる不動明王立像が祀られている。

不動明王立像

 不動明王立像の背後に幔幕がある。その幔幕の背後に、何と神社の社殿があった。

白兎神社社殿

 この社殿は、八頭町福本にあった白兎神社の社殿であった。

 大正3年に、白兎神社の御神体を八頭町宮谷の賀茂神社遷座した際、社殿のみ青龍寺本堂内に移築されたものである。

 寺院の本堂の中に神社の社殿があるという建築物は初めて見た。

 鳥取県の白兎海岸は、日本神話の因幡の白兎の説話の舞台である。この一帯には、白兎を祀った白兎神社が数多く建っている。この白兎神社の社殿もその内の一つだったわけだ。

 本殿は、江戸時代の建築で、蟇股には波兎の彫刻がある。

蟇股の波兎の彫刻

白兎神社社殿

 それにしても、お寺の中の神社建築とは、不思議な光景である。

 この社殿の背後には、弘法大師を祀る部屋がある。その部屋からも社殿の後部を見ることが出来る。

社殿の後部

 社殿背後の弘法大師を祀る部屋には、漁師が奉納したと思われる舵や額絵や幔幕がある。

 この地は海から少し離れているのに、不思議なことだと思った。

弘法大師を祀る部屋

弘法大師像と前立の観音菩薩立像

 弘法大師が唐からの帰路に、海上で暴風雨に遭った際、唐で彫った不動明王像に祈って難を逃れたという波切不動明王の伝説にあやかって、漁師たちは不動明王を祀る青龍寺に様々なものを奉納するのだろう。

 数多くの仏、明王、菩薩、天、日本の神々を祀る密教寺院は、空の教えを説く仏教寺院でありながら、多神教の神殿に近い要素を持っている。

 禅一筋の禅宗寺院や、念仏三昧の浄土系寺院と異なり、密教寺院のこの多神教的な多彩な要素が、素朴な庶民の信仰心に適合して、今に至るまで厚く信仰される理由になっているものと思われる。

 一時はアジア全体に広がった密教が、インド、中国、東南アジアでは衰滅し、日本とチベットで命脈を保っている理由はどこにあるのだろう。

 日本には空海チベットにはツォンカパという傑出した僧がいたからだろうか。日本では神仏のバランスがうまく取れたからだろうか。分かりそうで分からない。

 密教寺院を巡り続けることで、いつかその答えが見つかるだろうか。