七間堀にかかる石橋の奥に興禅寺楼門がある。
朱塗りの楼門は、近年興禅寺と法縁のある京都府宮津市の智源寺から移築されたものである。
2階建てであるが、2階には観音像を祀っているそうだ。門の左右には二天像が安置されている。
また楼門前には、春日局出生地の石碑が建っている。
天正七年(1579年)、明智光秀の軍勢が黒井城を陥落させた後、黒井城下には光秀の重臣だった斎藤利三が入った。
今興禅寺の建つ場所にあった黒井城の下館は、斎藤利三の陣屋となった。
後に三代将軍徳川家光の乳母となったお福(春日局)は、その天正七年にこの陣屋で生まれた。
お福は、数え年3歳の天正九年(1581年)まで、この地で育ったという。
興禅寺の境内には、お福の産湯に使われた井戸や、幼いお福が腰を掛けたと伝えられる「お福の腰掛石」がある。
お福が4歳となった天正十年(1582年)に、父斎藤利三は丹波亀山城(現京都府亀岡市)に移る。この年、本能寺の変で信長を倒した光秀は、山崎の合戦で秀吉に敗れる。
光秀の下で参陣した斎藤利三も秀吉軍に捕えられ、磔刑に処せられた。
その後お福は母方の実家稲葉家で養育された。成人したお福は、小早川秀秋の家臣稲葉正成と結婚した。稲葉正成は関ヶ原の合戦で東軍のために戦功を挙げた。
お福は、慶長九年(1604年)、26歳の時に家光の乳母となるために正成と離縁した。
家光の乳母となったお福は、陰に日向に家光を支えた。家光の両親の秀忠夫妻は、家光の弟である国松を偏愛して、将来国松を将軍にしようとしていた。お福が家康に対面して、国松ではなく家光を将軍にするよう直訴した逸事は有名である。
家光が将軍になってからは、お福は大奥を取り仕切るようになった。
お福は、寛永六年(1629年)に後水尾天皇に拝謁し、朝廷から春日局の号を与えられた。武家の一召使に過ぎない無位無官の女性が天皇に拝謁するということは空前の事で、これが後水尾天皇にとっては屈辱と感じられ、天皇の退位の要因になったという。
史実か分らぬ伝説上の話も多いが、お福が稀代の女傑だったことは確かだろう。
興福寺境内にある鐘楼は、斎藤利三の前に黒井城主だった赤井(荻野)直正の子、赤井直義が、寛永年間(1624~1645年)に先祖の菩提を弔うために建てたものを、大正2年に改築したものらしい。
寛永三年(1626年)に興禅寺がこの地に移転した際に建てられたものだろう。
赤井直正は、自ら悪右衛門と名乗り、丹波を切り従え、明智光秀を苦戦に陥らせた猛将であるが、次回の黒井城の記事で紹介したいと思う。
赤井直義は、黒井城陥落後城を脱出し、伊賀上野の藤堂家に仕えた。
また、境内にある庭園は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての公卿で、寛永の三筆と呼ばれた文化人、近衛信伊(のぶただ)が作庭したものらしい。
興禅寺の北側には墓地があり、そこから山の斜面に上がる道がある。
その道沿いに宝篋印塔が二基建っている。
この宝篋印塔は、昨日紹介した赤井氏の菩提寺・千丈寺から移転されたものと言われている。
これも、赤井直義が興禅寺建立時に移したものかも知れない。
南側の宝篋印塔には、台石に「嘉吉三年(1443年)八月逆修結衆」と彫られているらしい。逆修とは、生前にあらかじめ自分たちのために仏事を施し、自分たちの死後の冥福を祈ることである。
北側の宝篋印塔は、台石に「文安五年(1448年)十二月▢智大姉」と彫られているらしい。
彫られた文字を確認しようとしたが、判読できるような文字を見つけることが出来なかった。
かなり風化が進んでいるのだろう。
お福(春日局)の生涯を思い返すと、信長に謀反した明智光秀の家臣の娘でありながら、関ケ原の合戦で西軍を裏切った小早川秀秋の家臣の妻になり、最後は徳川三代将軍家光の乳母になってその後の徳川の治世の安定に寄与した。
数奇な人生であることは確かである。お福の人生を支えたのは、乳母として家光にかけた愛情とそこから生まれた胆力だろう。
人を傑物にするのは、何事にまれ、一つの事に愛情を注ぐところから生まれるものと思われる。