吉備津彦神社 後編

 吉備津彦神社の社殿北側にある子安神社は、岡山藩の名君池田光政公にゆかりのある社である。

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子安神社鳥居

 祭神は、伊邪那岐命伊邪那美命、木花佐久夜姫命、玉依姫命である。

 慶長年間(1596~1615年)に、岡山藩主池田忠継の後見人だった池田利隆が、子宝に恵まれなかったことから、子安神社に祈願したところ、光政の誕生を得たとされている。

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拝殿

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本殿

 今の子安神社の社殿は、寛文十二年(1672年)に建設された。

 晩年の光政が病にかかった際、娘の六姫の発願により、光政の生母の福照院が建てたという。

 吉備津彦神社本殿よりも古い建物である。

 桁行一間、梁間一間、檜皮葺、流造の建物で、蟇股の彫刻や本殿高欄の擬宝珠の形状が、桃山時代の様式を残しているという。

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本殿の高欄

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蟇股の五七の桐

 子安神社は、江戸時代の三名君の一人、池田光政公の誕生と晩年の病にちなむ社である。岡山市指定重要文化財となっている。

 この子安神社の北側には、摂社が並んでいて、そこから吉備の中山への登山道が始まっている。

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子安神社北側の摂社

 しかし私はそこからではなく、吉備津彦神社の社殿南側を通って登る道を選んだ。

 吉備津彦神社には、国指定重要文化財の太刀(銘井上真改附糸巻太刀拵)などの神宝があるが、社殿南側には、そうした神宝を収めていると思われる宝物殿がある。

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宝物殿

 吉備津彦神社の祭神大吉備津彦命は、伝説では、鬼ノ城を拠点に吉備を統治していた温羅(うら)という鬼を退治して吉備を平定したとされている。

 温羅は、吉備に製鉄技術を伝えた渡来人とも言われている。大吉備津彦命に敗れて捕らえられた温羅は、吉備冠者(きびのかじゃ)という称号を大吉備津彦命に献上したという。

 この伝説が、室町時代に生まれた桃太郎の鬼退治説話の元になったという説もある。

 面白いのは、吉備津彦神社の境内に、敵方の温羅を祀った温羅神社があることである。

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温羅神社

 捕らえられ首を刎ねられた温羅は、今の備中国一宮である吉備津神社の釜殿の地下に葬られたが、13年間唸り声を地中から発し続けたと言われている。吉備津神社の鳴釜神事は、温羅の怒りを鎮めるために始まった神事である。

 温羅は、大和王権の勢力が到来する前の吉備の支配者を象徴していると思われる。

 温羅神社は、出雲大社と同じく、皇室が我が国に君臨する前の豪族が祀られた珍しい社である。

 この温羅神社の脇に稲荷神社への長い石段がある。

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稲荷神社への石段

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稲荷神社

 稲荷神社へ参拝して、その脇から延びる登山道を歩いて吉備の中山に登り始めた。

 登り始めると、すぐ左手に石造五輪塔が見えてくる。

 この五輪塔は、面白いことに古墳の横穴式石室の天井石の上に乗っている。

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藤原成親供養塔と古墳

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 この石造五輪塔は、平家打倒のための会合、鹿ケ谷の謀議を開いて、平清盛に捕らえられ、非業の最期を遂げた大納言藤原成親の供養塔と言われている。

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藤原成親供養塔

 風輪と空輪が失われているが、その代わりに小さな火輪が最上部に据えられている。

 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて造られた塔らしい。

 古墳の方は、6世紀に築かれたもので、寺社の建設に伴い古墳が削られたためか、羨道は失われている。

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石室内部

 それにしても、古墳と石塔というのは、珍しい組み合わせだ。

 藤原成親供養塔を過ぎると、右に鋭角に曲がって登って行く道がある。

 鋭角に曲がってすぐ、左手の山中に入っていく山道がある。この道が、吉備の中山山頂に至る道である。

 吉備の中山は、標高約170メートルの低山だが、意外と急勾配が続き、息が上がった。山頂が見えてきたときはほっとした。

 山頂には、吉備津彦神社の奥宮である龍王社が祀られている。

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龍王

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 龍王社には、雲を操り雨を降らせる八大龍王が祀られている。天明年間(1781~1788年)の干ばつの時に、地元の商人常盤屋が奉献したものであるらしい。
 八大龍王の名は、それぞれ難陀(なんだ)、跋難陀(ばつなんだ)、娑伽羅(しゃから)、和修吉(わしゅきつ)、徳叉伽(とくしゃか)、阿那婆達多(あなばだった)、摩那斯(まなし)、優鉢羅(うはつら)である。どう見てもインド由来の神様だ。「妙法蓮華経」に出てくる、仏法を守護する天部の神様であるらしい。

 龍王社の両脇には経塚がある。経塚は、平安時代藤原道長が経を筒に納めて金峯山に埋めたのが始まりで、最初は経典を後世に伝えるために築かれた。

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経塚

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 しかし次第に自己の死後の安楽を願うために築かれるようになった。
 龍王社両脇の経塚からは、経筒が発掘され、雨乞いの儀式の時に用いられたが、明治10年に片方が盗まれた。

 残った一つは、現在岡山県立博物館で保存されている。

 八大龍王を祀る龍王社と経塚が、吉備の中山山頂にあるということは、吉備津彦神社でも、中世、近世にはかなり神仏習合が進んでいた証だろう。

 大和王権以前の豪族温羅の社、温羅を征伐した大吉備津彦命の社から、6世紀の古墳、中世に仏典を埋めた経塚、藤原成親の供養塔、江戸時代の子安神社、龍王社と、吉備の中山の周辺で、信仰が変化していく姿を追った。

 信仰は変化していったが、どれも排斥し合うことなく同居しているのが、日本の信仰の不思議な優しさである。

 日本人には、宗教上の教条よりも、先祖供養と今の自分たち家族の幸福と、死後の安楽を願う気持ちを優先するところがある。それに効き目がありそうな信仰は全て取り入れるため、様々な宗教が同居するのだろう。

 吉備の中山山頂からは、南に広がる岡山市街と児島半島、その奥の小豆島が見えた。

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吉備の中山山頂からの眺望

 既に夕日が差してきていた。吉備の中山を下山し、家路につくことにした。