旧鐘淵紡績洲本工場跡地から、洲本市内の寺町というエリアに行く。
江戸時代初頭、徳島藩は、淡路の政庁を由良湊に置いていたが、由良が地理的に不便であったため、寛永八年(1631年)に政庁を洲本に移した。これに伴い、武家や町人だけでなく寺も洲本に移転した。これを「由良引け」という。
寺町は、徳島藩が洲本の町を形成する際、町の西側の防衛のために寺院を数多く建てた場所である。
戦国時代には、土塀や石垣を巡らした寺院は、戦時には防衛拠点の役割を果たしていた。江戸時代初期には、まだその習慣が残っていたのだろう。
この寺町の中で、まずは洲本市栄町4丁目にある真言宗寺院、千福寺を訪れた。
千福寺には、洲本最古の仏像と言われる薬師如来坐像がある。
毎月8日は、お薬師様の日として護摩供養がなされているようだ。この薬師如来坐像は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての作とされている。写真で見ただけだが、なかなかいいお顔の像である。
薬師如来は、左手に薬壷を持っている。古くから病の苦しみを抜いてくれる仏様として信仰されてきた。
医学が発達していない時代には、人々は藁にもすがる思いでお薬師様に祈ったことだろう。
また本堂には、南画家の直原玉青が描いた襖絵「鳴門渦潮」があるそうだ。
本堂に接続して、愛染明王を祀るお堂がある。
密教寺院の修法壇上には、多宝塔が据えられているが、これにどういう意味があるのか知りたいものだ。
千福寺の南隣にある遍照院も真言宗の寺院である。
この寺は、数多くの仏像を公開する寺院であった。
この寺院には、木食観正(もくじきかんしょう)上人の坐像が祀られている。
木食観正上人は、俗名を喜作と言い、宝暦四年(1754年)に洲本大工町で生まれた。
30歳になって、地蔵寺(現遍照院)で得度し、爾来約20年間蝦夷地(北海道)を除く全国を廻国修行した。
上人が行った修行は、木食行と呼ばれるものである。穀物を断って、草の根や木の皮だけを食べる木食戒を守りながら、仏道修行に励むものである。
この木食行は、極めて危険な修行のため、明治以降禁止されているが、木食観正上人は木食行を続ける内に霊力を得て、数々の奇跡を起こし、人々から「今弘法」と呼ばれ熱烈に信仰されたそうだ。
秀吉と交渉して、秀吉の高野山攻めを阻止した木食応其(おうご)上人も、木食行を行った人物である。
弘法大師空海も、死期を覚ると穀物を断ったという。木食は、人間の体になにがしかの変化を与えるのだろうか。
さて、遍照院境内には、様々な石碑や墓がある。
文化元年(1804年)に洲本の俳人達によって建てられた芭蕉句碑がある。
有名な「もの言へば 唇寒し 秋の風」の句が刻まれている。
その隣には、寛保元年(1741年)から文化十二年(1815年)までを生きた、徳島藩洲本学問所の教官で、淡路一の碩学と呼ばれた藤江石亭の墓がある。
その隣には、徳島藩士大村純安の墓がある。
大村純安は、嘉永三年(1850年)から明治3年(1870年)までを生きた人物である。
庚午事変(稲田騒動)の後に切腹を命じられ、数え21歳で死去した。
明治新政府による明治2年の版籍奉還で、武士たちの禄制改革が進められた。
淡路は徳島藩蜂須賀家の家臣稲田氏が領していたが、蜂須賀家の陪臣という立場になる稲田家の家臣たちは、禄制改革で士族ではなく卒という身分にされ、低い俸禄を支給されることになった。
これに不満を覚えた稲田家家臣たちは、新政府に対し、徳島藩からの淡路の独立を訴えた。
徳島藩の直臣の一部は、淡路の独立を阻止するため、藩兵を率いて稲田家家臣たちを襲撃し、多数を殺害した。これが明治3年に発生した庚午事変である。
大村純安は、稲田家家臣を殺害したことで、明治政府から切腹を言いつけられた。純安の切腹は、我が国最後の切腹刑と言われている。
境内には、ガラス張りのモダンなお堂がある。
このお堂は、月夜大師を始め様々な仏像を祀っているお堂である。
お堂中央に祀られているのは、月夜大師の石像である。
石像の右上に三日月が彫られている。
空海が修行中、夜中に今の徳島県阿南市の月夜村を通りかかった時、あまりの暗闇に困難を覚えたので祈念したところ、月が出て月明りで歩行が出来るようになったという伝説がある。
月夜大師像はその伝説から来ている。この像は明治になって作られた像である。
その隣には、弘法大師が金剛界大日如来と同じ智拳印を結んで宝冠を戴いた姿となった、我即大日の弘法大師像がある。
我即大日は、我即ち大日如来という意味である。自分がそのまま大日如来だという即身成仏の思想を現している。
大日如来は、宇宙の真理そのものを象徴する法身仏だが、何も大日如来像のような人間の姿をしてこの世界のどこかに存在しているというわけではない。
真言密教では、大日如来を始めとする諸仏は、全て人の心の中にしまい込まれた機能と見ている。
自分の心を拝むのも掴みどころがないので、取り敢えず人間の形をした仏像を作って拝んでいるのである。
宇宙の姿を描いたとされる胎蔵曼荼羅には、如来や菩薩や明王や天部の神様など、400を超える仏が描きこまれているが、あれは人の心の本来の姿を描いているのである。
人は生まれながらにして仏の機能を心の中にしまい込んでいるのだが、煩悩で心が曇っているためにそれに気づかない。
曇った鏡を磨いて光を取り戻すように、修行によって自分が本来仏であることに気づくことを密教は目指している。
護摩行も阿字観も真言を唱えるのも、心の曇りを払うためである。
心の曇りを払えば、自分が大日如来であると同時に不動明王でもあり観音菩薩でもあり、弘法大師と同じであることに気づくことになる。
四国八十八ヶ所巡礼では、同行二人(どうぎょうににん)と言って、巡礼中一人で歩いていても、弘法大師がいつもついてくれているとされている。
また巡礼中、誰もが一度は弘法大師に出会うと言われている。
これは、巡礼中に心の曇りが取れれば、自分の心と弘法大師の心が本来同じであることに気づくことを指しているのだと思われる。
勿論、曇り続けたまま一生を終えても構わない。心が曇っていても、我即大日であることに違いはないからである。
私には、心を曇らせたまま、苦闘しながら一生を終える方が、人間らしくていいような気がする。