明治42年(1909年)にこの地に誘致された鐘淵(かねがぶち)紡績株式会社(現カネボウ)の洲本工場跡地である。
赤煉瓦の町と言えば、舞鶴や横浜や函館が有名だが、実は洲本も赤煉瓦の町なのである。これは意外であった。
今では、赤煉瓦工場跡の建物を改装して出来た、レストランや喫茶店、土産物屋が入った施設が複数開館している。
鐘紡は、日本を代表する紡績業者で、明治33年(1900年)に地元の淡路紡績会社を買収して、生産拠点を洲本に移した。
鐘紡が工場を建てたこの地は、元々洲本川が流れていた。明治の改修工事まで、洲本川の土砂が河口に堆積し、洲本港には大型船が入港できなかった。
洲本町長の岩田康郎は、明治35年(1902年)から2年かけて洲本川の付け替え工事と洲本港の改修工事を行った。
その結果、洲本川はここから北の現在地を流れるようになった。埋め立てられた旧洲本川跡の更地に建てられたのが、鐘紡の赤煉瓦工場である。
鐘紡洲本工場は、日本における当時最新鋭の綿紡織工場で、昭和12年(1937年)には規模を拡張し国内最大の綿紡織工場になった。
明治時代の日本の最大の輸出品は、衣類や布であったのだ。
大東亜戦争で生産設備が壊滅的な被害を受けたが、戦後復興し、昭和61年の工場閉鎖まで洲本市の象徴的企業として稼働していた。
赤煉瓦の建物の間は、広い芝生を控えた空間になっている。昼下がりの長閑な日が落ちた芝生の上を、観光客や会社員などが散策している。
赤煉瓦街にあるのは、レストランや喫茶だけではない。洲本市立図書館があり、文教地区にもなっている。
私は、煉瓦造りの建物と近代的な建物が融合した洲本市立図書館の中に入った。
郷土史のコーナーに行くと、阿波徳島藩に関する書籍が多い。淡路全島は、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀家の領地であった。
淡路を実際に領したのは、蜂須賀家筆頭家老の稲田家であった。淡路は蜂須賀家の直轄領ではなかったのだ。
そのためか、淡路は現在兵庫県に属しているが、文化圏としては完全に四国の文化圏に属していると思う。
淡路は、古代の行政単位では、紀伊、阿波、讃岐、土佐、伊予と共に南海道を構成していた。
この南海道に共通するのは、弘法大師空海と真言宗との関りが深い事である。ここには、紀伊の高野山はもとより、若き空海の修行地跡とされる四国八十八ヶ所霊場がある。
淡路にも真言宗寺院が多い。
私の家の宗派も真言宗だが、私の祖先は阿波の国人で、戦国時代に阿波で帰農して、江戸時代初期に淡路島南端の地に移住してきたそうだ。
自分の宗派と祖先のことを顧みると、自分の根っこが分る気がする。
淡路から阿波を巡る旅は、私のルーツを探る旅になりそうだ。
ところで鐘紡洲本工場は、昭和60年の円高不況で命脈を終え、翌年閉鎖された。衣料は、もっと人件費の安い国で作られるようになった。
私が中高生時代を過ごした兵庫県相生市も、石川島播磨重工業の企業城下町だったが、昭和60年の円高不況で造船業はアウトになった。
昭和60年は、日本の風景を変えた年であった。