洲本市 専称寺 江国寺

 遍照院から道を挟んで南側にあるのが、浄土宗の寺院、心念山専称寺である。

 地名で言うと、洲本市本町8丁目になる。

専称寺山門

 この寺には、庚午事変(稲田騒動)に関わって刑死、獄死した徳島藩士22名を追悼した庚午志士之碑がある。

 慶応三年(1867年)の大政奉還により、日本の政治の実権は徳川幕府から朝廷に戻ったが、明治政府が受け継いだ幕府の直轄領以外の土地と人民の支配権は、地方に割拠する各藩が握っていた。

 各藩の収入は明治新政府には入らず、全て藩主に入っていた。藩主はその収入から藩士を養っていた。つまり藩士は藩主の私兵であった。

法然上人像

 封建制度というものは、武力を持った殿様が、その武力を用いて一定の土地と人民を支配し、私物化する制度である。

 身も蓋もない言い方をすれば、暴力団組長が組員を使って土地と人民を支配し、勝手に徴税しているようなものである。

 現代の自衛隊や警察や海上保安庁といった武力を持った組織の人間は、公務員として国民のために働くことを求められ、税金で養われている。

専称寺本堂

 しかし封建時代の武士たちは、領民のためには働かず、藩主と藩の維持のために働いていた。

 このような制度を残していては、欧米のような国民国家を築き、国家のために戦う統一された軍隊を持つことは出来ない。

 藩という私兵集団を無くすことが、日本近代化の第一歩であった。

本堂の中の閻魔大王

 明治2年の版籍奉還で、藩主が私有していた藩の領地と領民が、日本政府に奉還されることになった。版は版図で領地のこと、籍は戸籍で領民のことである。版籍奉還大政奉還の地方版である。

 この時点では、藩は消滅しておらず、政府直轄地の府県と藩が併存していた。

 藩主は、藩知事という役になり、藩の収入の1/10が給与として支給されることになった。藩知事の役職は世襲が認められた。

 また武士の中で平士(ひらざむらい)以上は士族、足軽以下は卒という身分になって、藩の収入の中から俸禄を支払われた。

 今までは藩の収入は全て藩主のものになって、藩主が藩士に俸禄を払って養っていた。その代わり藩士は藩主に忠誠を誓った。

 版籍奉還後は、藩知事藩士も、藩という行政機構から給与をもらうようになったので、形式上は藩主と藩士は同列になり、主従関係はなくなった。

庚午志士之碑

 昨日の記事で紹介したように、淡路は徳島藩主蜂須賀家の家老稲田家の所領であった。

 稲田家の家臣は、藩主からしたら家臣の家臣、つまり陪臣である。稲田家の家臣は、版籍奉還に伴う禄制改革では、陪臣だったため一律に士族よりも低い卒の扱いになった。

 これに不満を覚えた三田昂馬を始めとする稲田家家臣は、徳島藩からの分離独立を明治政府に求めた。

 もし淡路が徳島藩から独立したら、淡路から入る収益が徳島藩の直臣に入らなくなる。

 これに危機感を覚えた徳島藩直臣は、明治3年5月13日未明、800名の兵を率いて稲田家の公邸や家臣の屋敷を襲撃した。

庚午志士之碑に刻まれた徳島藩士の名

 稲田家側は無抵抗で殺され、即死者15名、自決2名、重軽傷者20名の被害が出た。

 明治政府は、襲撃事件に加担した徳島藩士90余名を断罪し、稲田家家臣には北海道静内への移住開拓を命じた。開拓した土地を稲田家家臣の所領とするというのである。

 これが庚午事変、またの名を稲田騒動という。

 先ほど武士の支配を暴力団の支配に例えたが、一度例えてしまうと、これなども暴力団同士のシマを巡る争いと構図が全く一緒に見える。

 庚午事変に関わり刑死、獄死した22名の徳島藩士は、明治22年大日本帝国憲法発布の大赦により無罪となった。その際、刑死者を追悼するために建てられたのが、専称寺の庚午志士之碑である。石碑には恩赦された22名の名が刻まれている。

 専称寺から歩いて洲本市栄町3丁目にある臨済宗の寺院、江国寺に行く。

江国寺山門

 こちらには、庚午事変で亡くなった稲田家の人々の霊を鎮める招魂碑が建っている。

招魂碑

 北海道移住を命ぜられた稲田家家臣たちは、その後苦難の歴史を歩んだようだ。

 明治4年8月、稲田家家臣の移民団を載せて洲本を出港した平運丸は、紀州沖で遭難し、83名もの行方不明者を出した。

 北海道に辿り着いた人々も、厳寒の地で厳しい開拓生活を送らなければならなかった。

 稲田家家臣の苦難の開拓生活を描いたのが、平成17年に公開された映画「北の零年」である。

江国寺本堂

 江国寺の境内には、稲田家歴代当主の墓がある。この寺は、稲田家の菩提寺であったようだ。

 

歴代稲田家当主の墓地

 墓域に入ると、数多くの墓石が建っている。それぞれの墓石の前には、当主の名前と生没年を書いた立て看板がある。

 私が尋ね当てた最も古い当主の墓は、第3代当主の稲田植次(たねつぐ)のものであった。墓石にも慶安五年(1652年)に没したと書いてある。

稲田植次の墓

 また最も新しいのは、第16代当主の稲田邦植のものであった。昭和6年に没したらしい。

稲田邦植の墓

 稲田邦植も、静内に移住したそうだが、後半生は洲本に戻った。人生の最後は祖先の眠る洲本の地で迎えたかったのだろう。

 また、境内に一際大きな一対の石造五輪塔があった。

大きな石造五輪塔

 これなども稲田家と関係のあるものだと思うが、説明板がないため、どういう由来のものかは分からなかった。

 明治4年に施行された廃藩置県によって、藩は名実ともに消滅した。

 明治政府の新しい兵制では、士族だけでなく平民からも兵士を徴集することになった。藩の収入では、士族以外の兵士を維持することが出来なかった。

 負債を抱えた藩を預かる藩知事は、明治政府の廃藩置県の方針に反対せず素直に従った。藩は府県に吸収された。

 こうして私たちに馴染みのある都道府県制が出来て、日本は中央集権国家となり、近代化への道を歩み始めた。

 庚午事変に伴って流された刑死者や犠牲者の血は、日本が封建国家から近代国家に生まれ変わる際に生じた激動によって流された血である。

 流血を伴わずに時代に合わせて社会を変革できる政治制度の尊さをつくづく感じる。