神護山安楽寺 八幡神社

 3月21日に淡路の史跡巡りを行った。

 最初に訪れたのは、兵庫県南あわじ市八木養宜(やぎようぎ)にある八幡神社と、その隣にある真言宗の寺院、神護山安楽寺である。

八幡神社

八幡神社神門

 八木養宜の八幡神社は、宮山という小高い丘の上に建っている。

 淡路島南部の三原平野は、第16代仁徳天皇の時代から、天皇の遊猟地であった。三原平野を一望できる宮山は、天皇一行の休憩場所であった。

 遊猟中の天皇が、宮山で矢を置いて休憩したため、矢置から八木、養宜というこの辺りの地名が生まれたらしい。

拝殿

 ところで、淡路島南部に点在する史跡を巡って気づいたが、淡路島南部では、八幡神社の隣には必ず寺院がある。

 八木養宜の八幡神社の隣にも安楽寺がある。寺院の鎮守として神社が建てられたのか、神社を管理する別当寺として寺院が建てられたのかは分からぬが、両者が隣り合っているというパターンは、淡路島の南部では鉄壁のパターンである。

本殿

 神仏習合は、平安時代から中世にかけて行われるようになった。これらの隣り合った寺社の関係の始まりも、少なくとも中世に遡るだろう。

 宮山に登ると、本殿裏に元宮と刻まれた石塔があった。

元宮の石塔

 古くは、この元宮の場所に社殿か小さな祠が建っていたのだろう。

 宮山の隅には、弘法大師の石仏が置かれていた。

宮山の弘法大師の石仏

 隣の安楽寺には、多数の石仏がまとめて置かれていた。弘法大師の石仏は、ミニ四国八十八ヵ所の各箇所に、本尊の石仏に並べて置かれるものである。

 おそらく江戸時代以前の神仏習合の時代には、宮山にミニ四国八十八ヵ所の石仏が置かれていたのだろう。

安楽寺大日堂

大日堂の大日如来の石仏

 明治の神仏分離令で、神様の山である宮山から石仏が一斉に撤去され、安楽寺の境内に移されたのだと思われる。そして一部の弘法大師像が宮山に残されたのだろう。

 安楽寺の境内にある大日堂の大日如来の石像も、「第十番」と刻んであるので、ミニ四国八十八ヵ所の第十番霊場に置かれていた石仏だったと思われる。 

 宮山の西側には、安楽寺の伽藍が建っている。

本堂

本堂扁額

 神護山安楽寺は、暦応三年(1340年)に、淡路国守護だった細川阿波守師氏が、細川家の菩提寺として建立した。

 本堂の手前には、慈覚大師作と伝えられる十一面観音菩薩像を祀る観音堂がある。

観音堂

観音堂厨子

 安楽寺は、観音菩薩を祀る淡路西国三十三ヵ所霊場の第十一番である。

 さて、安楽寺の境内の片隅に、「嗚呼此墓(ああこのはか)」と刻まれた墓石がある。

嗚呼此墓

 江戸時代、淡路が徳島藩領だった時代、この地域の農民には、徳島藩の荷物を洲本から福良まで僅かな賃金で運ばなければならない「町送り(ちょうおくり)」という負担が課せられていた。

 天保三年(1832年)、八十助と林太郎を中心とする村民たちは、町送りの廃止若しくは賃金の値上げを求めて、洲本の徳島藩庁に押しかけて強訴した。

嗚呼此墓

 農民たちの訴えは認められ、町送りの賃金は値上げされたが、八十助と林太郎は郡外追放処分となった。

 2人はおそらくその後郷里から離れた地で死去したものと思われる。

 嗚呼此墓は、明治36年になって安楽寺に建てられた八十助と林太郎の墓である。

 町送り一揆から、71年後に建立された墓である。

 地元の人たちから、2人がいかに敬われていたかをあらわしている。

 私の住む地域でも、江戸時代に年貢の軽減を藩に訴えた人物を記念する催しが、今でも年に一度行われている。

 江戸時代に村人の生活を救うために行動した人物を顕彰する墓や石碑、行事は、日本中に残されている。

 八十助と林太郎も、追放された地元に墓を作ってもらい、慰安を覚えていることだろう。