現在の児島半島は、江戸時代に入るまでは、児島という島であったが、江戸時代初期の干拓事業により本州と陸続きになった。
池田藩政時代には、児島湾の干拓が続き、広大な新田が造られた。児島湾干拓事業は、明治時代に入っても続いた。
今回から連続して、児島湾干拓に関連する2つの神社を紹介する。
今村宮から南に走り、先ずは岡山市南区藤田にある藤田神社を訪れた。
藤田神社は、実業家藤田伝三郎が干拓して出来た藤田村の鎮守として、大正4年に創建された神社である。
藤田伝三郎は、天保十二年(1841年)に、長州萩に生まれた。藤田は幕末には尊王攘夷運動に奔走したが、明治維新後は実業を志し、大阪に進出して鉄道築港鉱山開墾林業等を経営する藤田組を興した。
藤田伝三郎は、児島湾を干拓することに熱意を見せた。地元漁業者らの反対を押し切って、干拓工事を決行することにした。
藤田は明治32年5月15日に干拓工事の起工式を上げた。明治35年には大暴風雨のため外囲堤防が決壊し、干拓地は大きな被害を受けたが、藤田は屈することなく復興に巨費を投じた。
こうして児島湾に四千町歩の土地が造成され、明治45年4月1日に干拓地の中心部に藤田村が創設された。
藤田神社の周辺には、田圃が連なる広大な空間があるが、これらがみな明治時代になってから海の上に造成された人工の土地なのだ。
藤田神社の鳥居は、大正13年に藤田組が造立したものである。
境内を歩くと、藤田村出身の戦没者を慰霊する殉国慰霊碑や、藤田伝三郎顕彰碑がある。
藤田神社の祭神は、豊受大神、大国主命、少彦名命である。豊受大神は、伊勢神宮の外宮の祭神で、天照大神に穀物を献上する神様である。
干拓地から豊富な穀物が収穫されることを願って勧請されたのだろう。
拝殿、本殿は、シンプルでオーソドックスな形である。
境内にある藤田天満宮には、菅原道真公の土人形が多数奉納されていた。
この藤田神社から少し南に行った妹尾川沿いに、かつてここにあった妹尾川三連樋門を再現したオブジェがある。
妹尾川三連樋門は、明治37年に竣工された樋門で、満潮時に干拓地に海水が入り込まないようにするための設備だった。
妹尾川三連樋門は、海側は全面石張りの三連アーチ、干拓地側は煉瓦と隅石の樋柱で構成されていた。
樋門の上は橋梁になっていたが、自動車1台がようよう通れる狭さだったため、平成26年に解体され、通常の橋に建て替えられた。
在りし日の妹尾川三連樋門を偲ぶため、藤田公民館の駐車場に樋門の石材を使ってオブジェが建てられた。
明治の石材建築が失われたのは残念である。
藤田伝三郎は、藤田村が出来る直前に72歳で逝去した。だが藤田が生涯をかけて行った事業は、日本地図上に歴然と残っている。
地図に残る仕事というものも、人のロマンを掻き立てるものである。