霊石山 前編

 慶長五年(1600年)に関ヶ原の合戦で功績を上げた亀井茲矩(これのり)は、同年因幡鹿野城主となり鹿野藩の初代藩主となった。

 因幡の千代川は、古代から洪水を多発させた暴れ川で、亀井茲矩が藩主になったころの鳥取平野は、川の氾濫と農業用水の便の悪さから、荒れ地や荒れた畑が多くあった。

 亀井茲矩は、慶長七年(1602年)から七年の歳月をかけて、千代川から水を引いて全長約16キロメートルの用水路を築いた。今も現役で使用されている大井手用水である。

樋口神社前から始まる大井出用水(令和5年4月9日再訪時撮影)

 千代川から大井手用水に水を引いた樋口のある場所に建てられたのが樋口神社である。

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樋口神社

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樋口神社拝殿

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樋口神社本殿

 樋口神社の祭神は、市杵嶋姫(いちきしまひめ)神と保食(うけもち)神である。

 市杵嶋姫神は、厳島神社の祭神と同一で、水の神である。保食神穀物の神である。

 この大井手用水のおかげで、鳥取平野に広大な穀倉地帯が出来た。大井手用水の取水口にある樋口神社に水と穀物の神が祀られたのは、広大な水田が築かれることを祈念するためだろう。

 樋口神社境内に、亀井茲矩公を顕彰する石碑があったようだが、うっかり写し忘れてしまった。

 後日(令和5年4月9日)に再度樋口神社を訪問し、亀井茲矩公頌徳碑を確認した。

亀井公頌徳碑

 この碑は、境内の南端にある。

 樋口神社の前に出て東を見ると、千代川から大井手用水に取水するための現代の樋門がある。そしてその向こうに、霊石山が見える。

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大井手用水樋門と霊石山

 霊石山は、標高約333メートルの台形の姿をした低山で、かつてその中腹に霊石山最勝寺の伽藍があった。最勝寺真言宗の寺院である。

 寺伝によれば、最勝寺は、和銅年間(708~715年)に行基菩薩が霊石山に草庵を開いたことに始まるという。

 最勝寺は、昭和30年に霊石山の麓に移転した。

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霊石山最勝寺

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最勝寺本堂

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鐘楼

 今の最勝寺の本堂は昭和の建築だろうが、鐘楼は、足元の石材に明治35年3月に完成したことを示す銘があった。昭和30年に山上から麓に移転されたものだろう。

 霊石山は、頂上まで舗装路が続いており、車で山頂に上がることが出来る。

 実は霊石山は、パラグライダーやハングライダーといったスカイスポーツのメッカとされている。日本海から吹く北風が、霊石山の斜面に当って上昇気流を生じさせることが、スカイスポーツの好条件を生むらしい。

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スカイスポーツのメッカ、霊石山

 スカイスポーツの客のため、山頂までの道が整備されているのだ。

 霊石山の中腹には、山の名の由来となった御子岩がある。舗装路から少し斜面を上ったところにある。

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御子岩

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 かつてこの地に降臨した天照大神の道案内をしたという猿田彦命が、この岩に冠を置いたことから、御冠岩とも呼ばれている神石である。

 猿田彦命は、道案内の神で、瓊瓊杵尊天孫降臨の際も道案内をしている。中世には、道祖神と習合された。

 この御子岩からの眺望がよい。眼下を見ると、丘の上に天守のような建物が見える。

 鳥取市河原町河原の城山にある、「河原城」と呼ばれる天守風の展望台である。

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御子岩から眺めた「河原城」という展望台

 城山には、戦国時代に丸山城という山城があった。武田高信が築いた城である。

 平成3年の発掘調査で、丸山城の曲輪や堀切、柱の跡が発掘された。平成6年に、ふるさと創生事業として、丸山城跡に犬山城天守を模した展望台兼郷土資料館が建てられた。そのため、城跡の遺構の大部分が破壊されてしまった。

 史跡好きの私からすれば、観光資源とするために、本来の城跡の遺構を壊して、その上に鉄筋コンクリート製の天守風の建物を築いたことは、残念なことである。

 戦国の世が終わってから日本中に建てられ始めた天守閣よりも、土で築かれた戦国時代の山城の遺構にこそ魅力があるということを発信していきたいものだ。

 さて、さらに山頂を目指して進むと、途中源範頼の墓とされる石造五輪塔がある。

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源範頼の墓とされる石造五輪塔

 源範頼は、源頼朝の異母弟で、義経の異母兄である。義経と並んで平家征討に功績を上げた武将である。

 ところが鎌倉幕府成立後、頼朝から謀反の疑いをかけられ、伊豆国修善寺に幽閉された。そこで頼朝配下の軍兵に誅殺されたとされている。

 しかし、最勝寺に伝わる伝説によれば、範頼は修善寺にて梶原景時の500人の兵士に包囲攻撃されたが、秘かに脱出して、因幡まで落ち延びたという。

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源範頼の墓の説明板

 因幡で出家した範頼は、教頼法師と名乗って、寂後は最勝寺に葬られたという。

 範頼の墓とされるものは、修善寺を始め日本のあちこちにあるので、範頼が実際に霊石山に来たかは分からないが、範頼の家来が落ち延びて、範頼の菩提を弔うため、ここで僧侶になったことはあり得る話だ。

 源義経にしろ、豊臣秀頼にしろ、西郷隆盛にしろ、無念の最後を遂げた人物には、生存伝説があることが多い。

 確かにそうした歴史上の人物が、もし生きていたらと想像することは楽しいことではある。

 歴史は実証的に研究すべきだろうが、こうした空想の余地があってもいいのかも知れない。