藤田神社から南西に車を走らせ、次なる目的地の興除(こうじょ)神社に向かった。
興除神社は、岡山市南区中畦(なかうね)にあるが、この一帯は、文政四年(1821年)から文政六年(1823年)にかけて開発された興除新田と呼ばれる干拓地である。
児島湾に干拓された広大な農地は、膨大な農機具の需要を生んだ。そのため、現在でも岡山県は日本最大の農機具生産地である。
興除神社の前には、戦前から続く農機具メーカー小橋工業株式会社の本社と工場がある。
小橋工業の北西角には、五差路交差点があるが、この五差路交差点から北東に延びる道と南に延びる道が旧四国街道である。
興除新田が干拓された文政年間に出来た道だろう。
興除神社は、この旧四国街道沿いにある。
興除神社の祭神は、久々能知(くくのち)神や埴安姫(はにやすひめ)神など九柱である。
埴安姫は、第八代孝元天皇の妃になった人物で、武埴安彦(たけはにやすひこ)命を生んだ。
武埴安彦は、第十代崇神天皇に叛旗を翻し、討伐された人物である。
武埴安彦の乱は、「古事記」「日本書紀」が載せる、日本史上初の皇室に対する武装反乱事件である。
その武埴安彦の母親がなぜ興除神社に祀られているのか、いわれは分からない。
興除神社の境内には、和霊神社という摂社が祀られている。
和霊神社に祀られているのは、伊予宇和島藩家老だった山家(やんべ)清兵衛公頼である。
山家公頼は、伊達政宗に仕えた清廉潔白で知られる人物であった。
元和元年(1615年)に、政宗の子の秀宗が伊予宇和島に封ぜられると、公頼は宇和島藩の家老となり、租税軽減を行うなどして、それまでの悪政に苦しんでいた領民を救い、藩治に多大な貢献をした。
しかし、その功績を嫉妬した藩士が藩主に讒言してから、公頼は藩主に疎まれるようになり、元和六年(1620年)に息子達諸共斬殺された。
公頼の没後、公頼の讒言者や政敵たちが続々と怪死し、藩主秀宗も病に倒れ、藩主の子らも病没した。それだけでなく、領内を地震や台風が襲ったため、宇和島藩はこれを公頼の怨霊のせいだと恐れた。
公頼の没後、公頼を慕う領民は秘かに城北の地に公頼を祀る小祠を建てた。
公頼の無実が判明したため、秀宗は承応二年(1653年)に山家公頼を祭神とする山頼和霊神社を創建した。享保二十年(1735年)には今の宇和島市和霊町に遷座した。
山家公頼を祀る和霊神社は四国各地に勧請されているが、興除神社にも勧請されている。
領内の産業振興を図った公頼を祀る和霊神社は、救民和楽・家業振興の御利益があるそうだ。そのため、この開拓地に勧請されたのだろう。
興除神社は、天保十二年(1841年)に興除新田の村の鎮守として創建された。
興除新田の開発を幕府に願い出たのは、児島郡天城村の大庄屋中島三郎四郎で、開発資金面で中心になったのは、岡山城下仁王町の紙問屋紙屋利兵衛(岩﨑家)であった。
興除神社は、紙屋当主岩﨑益治を中心に創建された。本殿を囲む玉垣には、岩﨑益治を始めとする開発銀主の名前が並んでいる。
本殿は神明造りの簡素な建物である。
また境内には、児島郡の庄屋だった星嶋貞慎が安政六年(1859年)に奉納した石灯篭がある。
昔から、日本人には、土地を拓いたら、その土地に鎮守の神様を祀る習慣がある。
地鎮祭もその現れだが、土地の神様を手厚く祀り、神様の許しを得て初めて安泰な生活を送ることが出来るというのが、古くから日本人に染み付いた習慣のようだ。
弘法大師空海も、高野山を開くに当って、地神の狩場明神を祀り、寺院開創の許しを土地の神様から得たとされている。
土地には目に見えない何かがいる、という感覚は、日本文化の基層に横たわる感覚のような気がする。