昨年12月5日に備前の史跡巡りを行った。岡山市街の史跡を中心に巡った。
岡山を代表する商店街である表町商店街の1本東側を通る南北の通りを、通称「オランダ通り」という。
煉瓦を敷き詰めた瀟洒な通りである。私が訪れた時は、まだ朝早かったので、人通りはまばらであった。
ここがオランダ通りと称されるようになったのは、日本人女性として初めて西洋医学を学び、産科医となって、後に「オランダおいね」と呼ばれた、楠本イネが若いころ修行した地だからである。
イネは、文政十年(1827年)に、オランダ商館付医師として来日したドイツ人シーボルトと日本人妻楠本タキとの間に、長崎にて生まれた。
イネは19歳になった弘化二年(1845年)に、シーボルトの門下生だった石井宗謙が産科医を開業していた備前岡山下之町に来て、石井の下で産科医の修行をした。
オランダ通り沿いにある、協同組合岡山市下之町商店会事務所(岡山市北区表町2丁目2-31)が、石井宗謙の居宅跡で、楠本イネが医術修行をした場所である。
イネは、嘉永四年(1851年)までここで修行し、産科医術を修得した。
イネは、背が高く容姿端麗な異形の美人だったそうで、石井宗謙との間に一女・高子を儲けた。
明治維新後は、宮内省にて医師として勤務し、明治36年に77歳で死去したという。
幕末から明治の激動期を生きた女医であった。
オランダ通りから1本東側の城下筋に出て、南に歩く。
岡山市北区表町2丁目4-20にある両備教育センターの前の歩道上に、岡山郡代津田永忠居宅跡の石碑がある。
津田永忠は、今まで当ブログで何度も取り上げてきた、岡山藩が誇る土木建築家である。
津田永忠は、岡山藩主池田光政、綱政の二代に仕えた家老で、池田家和意谷墓所、閑谷学校、後楽園、曹源寺、吉備津彦神社、田原井堰、田原用水、百間川、大多府島元禄防波堤などの建設を指揮し、更に岡山平野南部の広大な新田干拓を行った。
永忠が築いた建造物の大半は、今も現役の設備として人々の生活を支え続けている。
この石碑のある場所は、永忠が元禄四年(1691年)から宝永元年(1704年)まで暮らした居宅の跡地である。
後楽園築庭300年を2年後に控えた平成10年、永忠を偲ぶ有志たちが、居宅跡に建てたのがこの石碑である。
石碑に使われた石材は、永忠が建設に携わった百間川河口樋門に使われていた石材で、昭和43年の水門改修工事の際に撤去され保存されていたものである。
石碑には、津田永忠の業績を称える上で最もふさわしい「知行合一」の字が彫られている。
津田永忠の業績は、いつか脚光を浴びる時が来るだろう。
再びオランダ通りに戻る。
オランダ通り沿いの岡山市北区表町2丁目6-33にある渕野歯科は、岡山城下のシンボルだった栄町鐘撞堂のあった場所である。
栄町鐘撞堂は、寛文六年(1666年)に岡山藩によって設置された、岡山城下に時を報せるための設備である。
当初は二層だったが、天保六年(1835年)に三層建てに改築された。
方7メートル、高さ2メートルの基壇上に、高さ12メートルの三層楼が建てられていた。
二層目に掛けられた時鐘は、毎日昼夜十二時を報じるために鳴らされ、三層目に掛けられた警鐘は、火災発生時に打ち鳴らされた。
明治四年の廃藩置県まで岡山藩が管理し、岡山城下に時を報せ続けた。
津田永忠も、楠本イネも、この鐘の音を聴いたことだろう。
廃藩置県後は、一時休鐘となっていたが、その後小畑定七、松の夫婦が堂守となり復活した。
明治35年に定七が亡くなってからは、松が一人で毎日鐘を撞き、昭和8年に高齢に伴い辞めるまで続いた。
昭和20年6月29日の岡山空襲で、鐘撞堂は焼失した。今、岡山シティミュージアムに、5分の1の模型として復元展示されている。
今回、岡山市の中心部を散策した。建物が短いサイクルで建て替えられる日本の都市は、農村部よりも時間の経過を感じさせる。
古い木造建築やビルが解体され、新しい建物が建てられ、目まぐるしく変貌する都市の片隅にも、懐古されるべき史跡が佇んでいる。