蓮昌寺の境内にある僅かな木造建築物の一つが大仏殿釈迦堂である。
昭和20年6月29日の岡山大空襲で伽藍を失った蓮昌寺だが、昭和24年に児島の常山にあった常山寺の本堂を譲り受けて、これを仮の本堂とした。
寺宝の縦約7メートル、横約3メートルの大曼荼羅を開帳する際に、高さ10メートルの空間が必要だったため、昭和27年に仮本堂内陣を増築し、吹き抜けの二層の塔にした。
昭和43年に現本堂が出来てからは、仮本堂は剣道場として使用されていたが、平成3年の仮本堂解体時に、二層の内陣だけが残された。
そして塔に相応しい形に改築され、開山堂として、開山日像上人などをお祀りした。
平成12年に、笠井山に置かれていたビルマ仏像を開山堂に移してより、この塔は大仏殿釈迦堂と呼ばれるようになった。
ビルマ仏像の由来はこうである。
昭和30年代、我が国ではアジア善隣国民運動なるものが展開され、その一環として、ビルマ(現ミャンマー)訪問団が組織された。
昭和35年1月、全国知事会会長だった岡山県知事三木行治が、日本ビルマ両国の友好親善を象徴する仏像を携えてビルマを訪問し、ラングーン市にてビルマ側に贈呈した。
その後、三木知事が会長となった岡山日本ビルマ文化協会の事業として、ビルマに贈呈した仏像と同じ仏像を日本にも安置し、ビルマとの親善と戦没者の冥福を祈ることとなった。
昭和38年10月、岡山市笠井山山頂に、ビルマ様式の大仏殿が築かれ、ビルマ仏像が安置された。
当初は参詣客で賑わったが、年月と共に関係者が高齢化し、笠井山大仏殿の維持が難しくなったことから、平成12年に蓮昌寺がビルマ仏像を引き受け、この大仏殿釈迦堂に祀ることになった。
釈迦堂の格天井には、天井画が描かれている。
また釈迦堂上層には、戦後に女流絵師祥雲によって描かれた大絵曼荼羅が掛けられている。
寺宝の大曼荼羅を開帳するために増築された仮本堂内陣上層の白壁を、開帳時以外の平時に埋めるために描かれた絵である。
また、境内には、蓮昌寺の守護神である最尊一丸大明王を祀る一丸堂がある。
一丸堂は、松田左近将監が蓮昌寺を岡山城中に開創した時、蓮昌寺の守護神として境内に稲荷大明神を祀ったのが発祥であるという。
蓮昌寺の移転に伴って、一丸堂も移転し、現在に至る。今なお地元民の尊崇を集め、蓮昌寺夏祭りの時には、多くの人が参詣するそうだ。
この一丸堂の赤鳥居を潜ってすぐの場所に、丹下地蔵というお地蔵様が祀られている。
戦後、蓮昌寺児童館の英語教師だった丹下長勲(ながこと)は、愛媛県出身で、岡山大学からアメリカに留学した英才だった。
昭和51年、丹下は事故死したが、これを悲しむ学友、教師、知己らの手によって、ゆかりの地である蓮昌寺に、供養のための地蔵尊が建てられた。
地蔵尊建立決定と同時に、丹下の母に霊感が出てきたそうで、建立場所を知らないのに、丹下の母にはこの地に立つ息子の姿が見えたという。
史跡を巡ると、史跡にまつわる様々な説話を知ることが多いが、戦後の時代になっても、新しい説話が生まれているのだ。
丹下地蔵に手を合わせて、蓮昌寺を後にした。