晩夏に津山城を訪れて以来、久々に美作に来た。
今日紹介するのは、岡山県久米郡美咲町を代表する寺院、岩間山本山寺である。
本山寺は、現存する美作の寺院の中では、最古の寺院である。現在は、天台宗の寺院である。
吉井川沿いの交通の要衝大戸下(だいとしも)集落は、本山寺参詣の起点であった。大戸下郵便局のすぐ北側に、西を向いたお地蔵さんがある。本山寺参詣路の道標となる大戸の石地蔵である。
お地蔵さんの台石には、ここからの里程が書かれている。「従是誕生寺江二里半」とある。誕生寺は、久米郡久米南町にある、法然上人の出生地に建つ寺である。
台石には、「文政辛巳歳(文政四年、1821年)暮春再建焉」と彫ってある。再建とあるからには、文政四年より前から、ここに地蔵はあったらしい。
さて、お地蔵さんの向く本山寺方面に車を走らせる。
かつては本山寺の門前町として栄えた定宗集落の入口に、「左岩間山本山寺拾五丁」と刻んだ道標とお地蔵さんがある。
この道標のある場所から、徒歩で定宗集落を抜ければ、約30分で本山寺に至る。私は横着してスイフトスポーツで仁王門まで上がった。
本山寺は、伝説では役小角の開基で、鑑真和上が再興したものとされている。実際の寺伝では、大宝元年(701年)に頼観上人が開基したとされる。
本山寺は、当初ここの南方の金刀比羅山頂にあったが、天永元年(1110年)に現在地に移った。
当時は120坊を数えたとされるが、今はその面影もない。
仁王門は、貞享三年(1686年)に建てられた入母屋造の八脚門である。岡山県指定文化財である。仁王像も貞享の作だろう。
仁王門を過ぎると、まるで城郭の櫓のような長屋が視界に飛び込んでくる。
この長屋は、津山藩主松平斉民が、霊廟の番士の待機場所として、弘化二年(1845年)に建てたものである。
しかし不思議と埋門には、松平家の前の藩主、森家の家紋が彫られている。長屋も岡山県指定文化財だ。
長屋の裏には客殿がある。客殿も弘化二年に再建されたものである。
客殿の中門には、松平家の葵の紋章が彫られている。
中門を潜ると客殿がある。石州瓦を載せた広壮な建物だ。
ところが客殿の蟇股には、またもや森家の家紋がある。ひょっとしたら、長屋と客殿は、森家時代の部材を再利用して再建したものではないか。
本山寺は、森家の時代に藩の祈願所となり、藩内天台宗の触れ頭とされた。
客殿の東側には、十一面観音菩薩像と、三代将軍徳川家光、四代将軍徳川家綱の霊牌を祀る霊廟がある。
霊廟は、森忠継が徳川家への忠誠の証として、承応元年(1652年)に建てたものである。
霊廟は、宝形造の本殿と入母屋造の拝殿を、切妻造の中殿でつないだ権現造だが、残念ながら修復工事中であった。
覆いの間から、瓦を外して梁が剥き出しになった屋根が見えた。霊廟はさぞ立派な建物だろうに、残念なことである。
しかし霊廟の唐門は拝観できた。唐門は、金色の金具と葵の紋を門扉につけたもので、霊廟の格式の高さを窺わせる。
霊廟唐門の前には中庭があり、その一角に応永六年(1399年)の銘のある石造宝篋印塔がある。
花崗岩製で総高142センチメートル、塔身には、月輪の中に金剛界四仏種子を刻んでいる。
更に境内を奥に進むと、歓喜天(聖天)を祀る聖天堂がある。
歓喜天は、仏教の守護神で、絶大な御利益のある神様であるとされる。象頭人身の二体の男女神が、抱き合う御姿である。
本堂の西側には、天台宗寺院ではお馴染みの山王堂がある。享保十八年(1733年)の建築だ。
山王堂は、比叡山の地主神である山王権現こと日吉権現を祀っている。本山寺本堂は、インド由来の歓喜天と日本土着の山王権現という二柱の神様に守られている。
山王堂の蟇股の彫刻が、龍ではなく鯉であった。これは珍しい。由来が知りたいものだ。
ここまで駆け足のように紹介したが、次回は国指定重要文化財の本堂や三重塔など、寺の主要な建物を紹介する。