西川緑道公園から東に逸れて、岡山市北区田町の日蓮宗の寺院、佛住山蓮昌寺まで歩いた。
蓮昌寺は、正慶年間(1332~1334年)に富山城主松田左近将監元喬により、岡山城中の榎の馬場に建てられたという。
その後、宇喜多直家が備前の覇者となり、岡山城を拡張した際、蓮昌寺を旭川の対岸の森下に移した。
更にその後、岡山城主になった小早川秀秋が、戦略上の理由で、寺を現在地に移転させたという。慶長六年(1601年)のことである。
今の蓮昌寺の本堂は、巨大な鉄筋コンクリート製の建物である。
江戸時代の蓮昌寺は、広大な境内に七堂伽藍を完備し、四十八ケ寺もの末寺を有しており、日蓮宗の寺院としては中国地方一の偉容をほこっていた。
境内には、十八間四面の大本堂(国宝・桃山時代)や三重塔(国宝・南北朝時代)、祖師堂、護法堂、千仏堂、多宝塔といった立派な建造物もあった。
しかし、昭和20年6月29日の岡山大空襲で、木造伽藍の全てが焼失した。もし戦災で焼けていなければ、蓮昌寺は戦後、岡山市を代表する観光地になっていたことだろう。
昭和43年に、鉄筋コンクリート製の現本堂が建てられた。現本堂の正面階段脇に、かつての国宝大本堂の礎石が置かれている。
旧本堂西北隅の礎石らしい。
史跡の素材の中で、風化せずに残るのものは石である。旧本堂の遺物は、この礎石だけになってしまった。
本堂の南側には、昭和43年の新本堂建立の際に造られた庭園がある。
庭園に使われている石の大半は、戦前の蓮昌寺の庭園で使われていた石である。
たかが石と言っても、馬鹿に出来ない。
街中の道端などに大きな石があったら、それは何らかの由来のある石である可能性が高い。古い建物の礎石として使われていたものかも知れないし、庭園の庭石として使われていた石かも知れない。
庭園の脇の蹲(つくばい)は、焼失した国宝・三重塔の心柱の礎石である。
その隣には、松尾芭蕉の句碑があるが、どんな句を刻んでいるか読み取ることが出来なかった。
平成12年の工事で、かつて本堂と三重塔の間にあったが、空襲後所在が分からなくなっていた題目石(「南無妙法蓮華経」の題目を刻んだ石)が見つかった。
発掘された題目石は2つに割れていたが、今は割れたままの状態で展示されている。
こうして建造物の大半が焼失してしまった蓮昌寺だが、奇跡的に本堂に掛けられていた大曼荼羅は焼失を免れた。
大曼荼羅と言っても、密教の曼荼羅のように諸仏を描いたものではなく、南無妙法蓮華経の七字の妙号を書いたものである。
日蓮上人の孫弟子、日像上人の自筆のものとされている。この大曼荼羅は、岡山市指定重要文化財である。
史跡巡りをして、石垣や礎石、石碑、庭石などをみる内に、石にも表情があることに気づいた。
たかが石と言えども馬鹿にはできない。寺社の礎石は、再建された建物よりも古い場合がある。
人が手を加えた石というものは、寂びた魅力を放っている。