上板井原集落から再び智頭宿に下りてきた。智頭宿から西にしばらく行った篭山の山麓にある真言宗の寺院、宇谷山豊乗寺(ぶじょうじ)を訪れた。
地名で言えば、鳥取県八頭郡智頭町新見にある。
豊乗寺は、嘉祥年間(848~851年)に、弘法大師空海の実弟の真雅僧正により創建されたと伝えられている。
しかしこれは伝説上の話である。
今は無き梵鐘の銘文には、「開山五代の末葉、範恵阿闍梨、明応五年(1496年)に梵鐘を鋳る」とあったという。一代30年として、明応五年から五代150年遡れば14世紀半ばである。南北朝時代だ。しかし後に触れるように、この寺には、平安時代の作の寺宝もある。結局豊乗寺の詳しい来歴は分かっていない。
豊乗寺の石段の下には、清美(せいみ)地蔵という名の地蔵が祀られている。
昔、豊乗寺のある新見村の隣の惣地村に、西尾という農家があり、そこに清美という18歳の娘がいた。
清美は、新見の領主河村安芸守の若君と恋仲になり、豊乗寺の蓮池のほとりを通って若君の屋敷に通った。
ある時、清美が若君の屋敷に行くと、若君は他の女性と結婚の祝宴を挙げていた。若君に裏切られたと思った清美は、蓮池に戻り、入水したという。
この地蔵は、清美の供養のために、若君と西尾家が建てたものとされている。豊乗寺の山門下の石段も、河村、西尾両家が清美の供養のために寄進したものだそうだ。
その石段を登ると、延享元年(1744年)建立の仁王門がある。
仁王門の中には、仏師運慶が彫ったとされる仁王像が立つが、これも伝説上の話だろう。
仁王門は、山陰らしく石州瓦を載せていた。豊乗寺の仁王門は鳥取県指定文化財である。
豊乗寺は、戦国時代に入って最盛期を迎え、12坊の僧坊を数えるまでになった。天正八年(1580年)の秀吉の鳥取攻めの際に、豊乗寺の僧侶は秀吉軍の襲来を恐れ、仏像や梵鐘を地中に埋めて退散した。寺は秀吉軍に焼き払われた。
寛永年間(1624~1643年)に、中興の祖真慶を迎え、十一世秀尊の代に地中から仏像仏具や梵鐘を掘り出し、寺を再建した。
貞享二年(1685年)に本堂を再建した。
弘法大師空海を祀る大師堂は、天明二年(1782年)の建立である。茅葺屋根で、建立当時の風情を残すお堂だ。大師堂も鳥取県指定文化財である。
大師堂の破風には、鳥取藩主池田家の揚羽蝶の家紋が付けられていた。池田家の信仰を集めていたのだろう。
ところで豊乗寺には、何故か名宝と言われる文化財が数多く所蔵されている。
国宝・絹本著色普賢菩薩像と国指定重要文化財・絹本著色楊柳観音像は、現在東京国立博物館に寄託されている。
普賢菩薩像は、平安時代後期(12世紀)の作のようだ。説明板の写真は暗くてよく見えないが、日本仏画の最高傑作の一つとされている。
また、国指定重要文化財の毘沙門天立像も、12世紀の作と言われている。
その他にも、鳥取県指定文化財となっている絹本著色両界曼荼羅図や絹本著色不動明王像がある。
このような山間の寺院に、なぜこのような名宝が請来されたのか。またこれらの名宝がどうやって天正の兵火を逃れたのか。謎である。
真雅僧正が開山したという豊乗寺の寺格が高かったというのが、最も分り易い答えだろう。結局のところは分らない。
寺の裏手に回ると、鳥取県天然記念物の豊乗寺のスギがある。
幹回り約2メートルの雄大な杉だ。
豊乗寺のスギの下には、池泉庭園がある。
山間の静かな寺院はいいものだ。
今回の智頭の旅シリーズは一旦終わる。次に因幡の地を訪ねる時は、もう秋風が吹いているかも知れない。