オランダ通りから南西に歩く。
岡山市北区表町3丁目にある浄土宗の寺院、法澤山大雲寺に辿り着いた。
大雲寺は、岡山城を築いた宇喜多氏によって、現在の岡山市北区西大寺町に建てられた。
当初は、竜昌山大運寺と称していた。寺は一度衰微したようだが、天正年間(1573年~1592年)に僧侶安楽庵策伝が一夜の宿をとったのを機に再興し、号を大雲寺に改めた。
慶長六年(1601年)、宇喜多氏の次に岡山城主になった小早川秀秋が岡山城の外堀を開鑿した際に、大雲寺は現在地に移転させられた。
昭和20年6月29日の岡山大空襲により、寺は全焼し、本尊阿弥陀如来像や地蔵尊像が損傷を受けた。
地蔵堂の奥には、延命地蔵又の名を日限(ひぎり)地蔵というお地蔵様が祀られている。
ここに祀られている延命地蔵への信仰の由来は、昔旭川が大洪水を起こしそうになった時、お地蔵様が流れ着いて水を堰き止め、大被害を防いだことから来ているという。
水が引いた後、住民がお地蔵様を運び、その手で自分の肩や腰を撫でると痛みがとれたという。
現在では、新しく生まれた子供を守り、寿命を延ばす延命地蔵として祀られている。また何日までに叶うようにと日を限って願をかけると、願いが叶ったことから、日限地蔵と呼ばれるようになったという。
さて地蔵堂に上がって畳の上に座り、延命地蔵に対面すると、お地蔵様から不思議な威厳と優しさを感じた。
急に自分の小ささを感じて全てに申し訳なくなり、思わずお地蔵様の前で平伏してしまった。
こんな気持ちになったのは初めてだ。何というか、本物の仏さまが目の前にいて慈愛の目でこちらを見て下さっている感覚とでも言おうか。
力なく「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」と地蔵菩薩の真言を唱えた。
それでも延命地蔵に近づいて、有難く写真を撮らせて頂いた。
近くでお地蔵様を拝見すると、所々ひび割れた箇所を修復した痕や、空襲で焦げたと思われる焦げ痕があった。
まるで痛みを我が身に引寄せて、衆生の苦しみの身代わりになった痕のようだ。
私は今まで、仏像のなかでも、地蔵菩薩はあまり格好いいとは思っていなかったが、この延命地蔵を見てから、地蔵が格好いいと感じるようになり、どこにでもある道端のお地蔵様に目が行くようになった。
この延命地蔵のお陰で、大雲寺は地蔵信仰が盛んになり、多くの地蔵像が奉納安置されている。
延命地蔵の横の地蔵群の最奥中央に、弘法大師の石像があった。弘法大師は、日本の各宗派の宗祖の中で、唯一他宗派でも祀られている人物である。私は以前曹洞宗の寺院にも弘法大師が祀られているのを見たことがある。
さて、大雲寺境内西側には、様々なお地蔵様が祀られている。
例えば泡子地蔵は、幼くして亡くなった子供を供養するお地蔵様で、子安地蔵は子供の健やかな成長を見守るお地蔵様だ。
願い事を叶えて下さる願能地蔵は、実際にこういうお顔をした男性が身近にいそうな、親しみを感じさせてくれるお地蔵様だった。
変わったところでは、礎石に車のハンドルのようなものが彫られた交通安全のお地蔵様があった。
悪い気が吹き溜まるとされる北側を向いて、人々を見守り、人々のために奔走して下さる北向地蔵もあった。
地蔵菩薩は、梵語ではクシティガルバと呼ばれる。クシティは大地で、ガルバは胎内の意味である。
大地が汚物を含めた全てのものを受け入れて、生命を育むように、地蔵菩薩は無限の慈悲心で六道輪廻の中で苦しむ衆生を受け入れ、救いの手を差し伸べる仏様とされている。
他の仏像は、寺院か山中に行かないと見かけることがないが、地蔵菩薩像は、人々が日常生活を行う街中の道沿いや峠道などで見かける。
これは日本では地蔵菩薩が道祖神と習合されたからでもあるが、排気ガスを含んだ町中の汚濁の中で、じっと人々の生活を見守る姿は、地蔵菩薩の本来の姿であると言えると思う。