岡山市 大福寺 徳與寺

 少林寺から南に歩き、岡山市御成町にある真言宗の寺院、聖満山法城院大福寺に行く。

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大福寺

 大福寺は、天平勝宝年中(749~757年)に報恩大師が開いた備前四十八ケ寺の一つで、当初は備前国和気郡伊部村にあったという。

 寛永年中(1624~1644年)に、岡山藩の寺社整備の一環で、上道郡門田村に移り、更に現在地に移転した。

 ご本尊は阿弥陀三尊像で、ここに祀られる弘法大師像は藩主池田綱政の世子病気平癒の礼像であったそうだ。

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大福寺薬医門

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 綱政公以降、岡山藩歴代藩主の御願所となり、享保十七年(1732年)に薬医門が、安永元年(1772年)に本堂と毘沙門堂が、寛政十一年(1799年)に客殿庫裏等が建てられた。

 昭和20年6月29日の岡山大空襲により、堂舎の大半が焼失した。現在江戸時代の建物で残っているのは、薬医門と客殿、庫裏、釣屋、土蔵である。

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客殿

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本堂

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大師堂

 大師堂には、池田綱政公のお礼像である弘法大師像が祀られている。

 境内で一際目立つのは、寛政九年(1797年)に建てられた大地蔵である。

 この大地蔵には、岡山大空襲の際の焼け焦げた跡が残っている。

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大地蔵

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寛政九丁巳歳の銘

 大地蔵の蓮華台の下が黒くなっているが、これが空襲の際の焦げ跡だろう。

 境内には、三面大黒天が祀られている。

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三面大黒天

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 三面大黒天は、正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁財天の3つの顔をもつ合体神だそうだ。
 正面の大黒天は財産の神、右面の毘沙門天は戦いの神、左面の弁財天は美と才能と学問の神で、現世での成功をもたらしてくれる必要不可欠なものを備えているのが、この三面大黒天だそうだ。
 大福寺の三面大黒天は、江戸時代に作られたものである。 

 大福寺から東に歩いた徳吉町1丁目に、真言宗の寺院、能満山徳與寺がある。

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徳與寺

 徳與寺の寺伝はよく分からないが、虚空蔵菩薩十三参りと針供養で有名な寺のようだ。

 境内は割合に狭く、大きな堂舎は存在しない。

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薬師堂

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観音堂

 このお寺は、女性の技芸や裁縫の神様の淡嶋大明神を祀っている。

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淡嶋大明神の拝殿

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淡嶋大明神の本殿

 淡嶋大明神の拝殿には、「南無淡嶋大明神」と書いた板が下がっていた。南無とは、仏に帰依する時に使う言葉だが、神名の前に南無を冠するのは初めて見た。これも神仏習合の姿だろう。

 淡嶋大明神の本殿の隣には、針塚がある。

 さて、徳與寺には、宇喜多直家の妻で、宇喜多秀家の母である、お福(お鮮)の供養塔と伝えられる五輪塔がある。

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お福の方供養塔の説明板

 お福の方は、美作勝山城主三浦貞勝の妻だったが、勝山城が三村家親の手により陥落すると、備前に落ち延びて宇喜多直家と再婚し、秀家を生んだ。

 直家没後、秀吉に見初められて大坂城に引き取られたという。好色な秀吉の側室になったという説もあるが、定かではない。

 説明板には、「岡山のクレオパトラ」だったとあるが、相当な美人だったのだろう。

 宇喜多秀家が秀吉に可愛がられ、五大老に抜擢されたのも、お福の方の影響があったのかも知れない。

 お福の方の供養塔は、梵字ではなく「妙法蓮華経」と刻まれた五輪塔で、その下に「法鮮」と刻まれている。

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法鮮銘五輪塔

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 法鮮銘の脇には、文禄三年(1594年)十二月十一日というお鮮の命日が刻まれている。しかし秀家の生母は、慶長五年(1600年)以後も生きていたとする史料もある。

 近年この五輪塔は、秀家の生母ではなく、直家の甥である宇喜多詮家(坂崎直盛)の妻の供養塔であるとの説が出ている。

 地元の岡山市民からすれば、岡山城下を整備した宇喜多秀家の生母の供養塔であって欲しいと願うところだろう。

 供養塔にしろ墓にしろ、そこに名前や戒名が刻まれた人の縁者が亡くなると、他に記録が無ければ、その墓の所縁は分からなくなってしまう。

 墓が建てられた時の墓誌銘というものは重要であると思う。