波羅蜜山新興寺

 鷹山城跡のある丹比の町から車を西に走らせ、鳥取県八頭郡八頭町新興寺にある真言宗の寺院、波羅蜜山新興寺を訪れた。

新興寺

 新興寺は、寺伝では和銅二年(709年)に行基菩薩が開基したとされている。因幡国最古の寺院であるそうだ。

 新興寺は、古くから興福寺系の修験道の拠点として発展し、新興寺を取り巻く山々は、修験者たちの修行の地であった。

 最盛期の鎌倉・室町時代には、広大な寺領を有していたが、天正八年(1580年)の秀吉の因幡攻めの際に灰燼に帰した。

中世の寺領

 正保年間(1644~1648年)にこの地を訪れた京都の盛範という僧侶が、この寺の由緒を知り、その荒廃を嘆き、復興に尽力したという。

 再建後の寛文五年(1665年)には、本尊の聖観世音菩薩像が勧請された。

聖観世音菩薩像

 脇侍仏は、鎌倉時代制作の薬師如来像と、天正十三年(1585年)に京都の仏師覚勢が作った延命観音菩薩像である。

 また、境内には、至徳二年(1385年)の銘のある宝篋印塔がある。

宝篋印塔

 新興寺の宝篋印塔は、相輪、笠、塔身、基礎、反花座が完存している。風化もなく、非常に美しい宝篋印塔である。鳥取県保護文化財となっている。

 境内の大師堂には、弘法大師像が祀られている。

大師堂

蟇股の龍の彫刻

 大師堂は正面の引き戸が開いていた。中に入ると、正面に弘法大師像があり、その向かって右に胎蔵曼荼羅が、左に金剛界曼荼羅が掛かっていた。

大師堂の内部

弘法大師

胎蔵曼荼羅

金剛界曼荼羅

 曼荼羅には、人の形をした仏様が沢山描かれている。どこかにこのような仏様が沢山いる世界があるというわけではなく、人が本来持つ心の姿を描き表したものとされている。

 密教で言う「心」とは、個人が持っている感情のことを指しているのではなく、個人が持つ感情も含めた、人間が認識しているこの宇宙の生滅の基となる虚空のようなものを指している。

 「大日経」では、菩提(悟り)について、「如実知自心」と説いている。自己の心を正しく、ありのままに知ることを菩提としている。菩提と心は、意味としては同一である。

 例えば、ホワイトボードにマジックで色々なものを書いても、黒板消しで拭けば、文字はすぐに消えてしまう。

 菩提=心は、汚れのない清浄なホワイトボードのようなもので、我々が自分自身の体も含めて、有ると思って執着する宇宙の現象は、ホワイトボードに書かれる文字のようなものか。文字はすぐに消えてしまうが、文字はホワイトボードがなければ生滅しない。

 ホワイトボードに書かれる文字には、ホワイトボードの存在は認識できない。我々が菩提を得るのが難しいのは、そのためかと思われる。

 本堂には聖観世音菩薩像が祀られている。

本堂

 本堂は開いていなかったので、本尊を拝観することは出来なかった。

 観音菩薩は、慈悲を持ち、人々に救いを齎す仏様とされてる。

 先ほどのホワイトボードの例えの続きだが、世界の現象を描きだすホワイトボードが何故存在するのかは結局のところ分からない。しかし、ホワイトボードに優しさがあると思わなければ、その上で現れては消えるだけの文字にはこの世界は耐えがたい。

 仏に慈悲があるというのは、人間の願望だろう。

 この世界の中で短い間に現れては消える儚い仲間同士である我々は、少なくともお互い労わりあって過ごすべきではないかと思う。