萬松寺の参拝を終えると、もう大分陽が傾いていた。日没前にもう一箇所史跡を訪れようと思い、そこから北上し、丹波市市島町白毫(びゃくごう)寺にある天台宗の寺院、五大山白毫寺を訪れた。
白毫寺は、慶雲二年(705年)に、インドから渡来した法道仙人により開基されたと伝わっている。
御本尊は、法道仙人が天竺から伝来した秘仏薬師瑠璃光如来像とされている。
この像を安置した時に、仏像が眉間の白毫から瑞光を放ったので、白毫寺と名付けられたという。
その後、平安時代初期に唐の五台山で修行し、密教を学んだ慈覚大師円仁が、帰朝後に白毫寺を訪れた際、周囲の山並みが五台山に似ているのを認め、山号を五台山と命名したという(現在は五大山を名乗る)。
写真では伝わりにくいかも知れないが、確かに白毫寺背後の山々は、山肌から所々岩が露出し、山水画の世界のような景色だった。
円仁は、唐から持ち帰った密教法具を百毫寺に伝えた。白毫寺には、円仁の伝来したものとされる兵庫県指定文化財の五種鈴があるが、実際は鎌倉時代末期のもののようだ。
白毫寺は、鎌倉時代には執権北条時頼の寄進を受けて七堂伽藍を整備し、南北朝時代には赤松貞範の庇護を受け、93坊を擁する丹波屈指の名刹となった。
境内に入ると、心字池がある。
その池に太鼓橋がかかっている。
この太鼓橋は、元禄年間(1688~1704年)に建てられたとされている。人間の迷いの世界から仏の悟りの世界へ渡る到彼岸思想を現すものだそうだ。
この太鼓橋を渡った先に石段があり、その上に御本尊薬師瑠璃光如来を祀る白毫寺総本堂の薬師堂がある。
橋を渡れば薬師瑠璃光如来の祀られる薬師堂に至るのだから、確かに太鼓橋は彼岸への橋と言える。
薬師堂に掛かる鰐口は、元々播州の法華山一乗寺にあったもので、長享二年(1488年)の銘があるらしい。
天正三年(1575年)の明智光秀の丹波攻めの際、白毫寺の僧兵は、黒井城に拠る赤井悪右衛門直正に呼応して光秀勢と対峙した。
天正七年(1579年)の光秀による再度の黒井城攻めの際は、白毫寺が裏山の堂床から黒井城に送水しているのが光秀勢にばれて、攻撃を受けて堂宇を焼かれてしまった。
その後、白毫寺南西の五軸の峯に、夜な夜な輝く光明が現れるという噂が立った。
光秀が部下に山を調べさせると、御本尊の薬師瑠璃光如来が鎮座して光り輝いているのが見つかったという。光秀の部下は恐れおののいてその場に平伏した。
報告を受けた光秀は、筆頭家老の斎藤利三を黒井城主にし、白毫寺の復興を命じたという。
天正年間(1573~1592年)には、紀州熊野の橋爪一族が、白毫寺裏山の銅鉱脈を採掘する作業に当っていた。
この熊野神社は、橋爪一族が、故郷の熊野三山に祀られる熊野権現を勧請して祀ったものである。
境内を奥に歩くと、本堂と寺務所がある。
本堂の手前には、何故か孔雀が飼われていた。
孔雀は毒蛇やサソリを喰らうことで知られているが、その生態から、仏教で煩悩の根源とされる三毒(貪瞋痴)を喰らう孔雀明王という天部の神様の象徴となった。
憤怒の形相をした明王たちの中で、孔雀明王は、慈悲の表情を浮かべて孔雀に乗った一面四臂の菩薩の姿で描かれる。
白毫寺は、新丹波七福神の霊場の一つで、本堂には布袋尊が祀られている。
境内には、その他に、貞治四年(1365年)の銘のある宝篋印塔がある。
この宝篋印塔の北面には、「春日部庄當郡領主播州赤松筑前守沙弥世貞(せいてい)」と刻まれている。
沙弥とは出家したばかりの僧のことだ。世貞は、赤松貞範の僧侶としての名である。
赤松氏ゆかりの一品がここにもあった。
この宝篋印塔が珍しいのは、隅飾りの輪郭内部上端に小さな穴が開けられていることである。
どうやら宝篋印塔の九輪の上端とこの穴を紐で結び、垂飾りを垂らしたらしい。このような宝篋印塔は見たことがない。
白毫寺の宝篋印塔は、兵庫県指定文化財となっている。
日本の寺院には、中世の戦乱や、大東亜戦争の空襲で焼けてしまったところが多いが、ほとんどが本尊への篤い信仰を基にして再興されている。
建物が建て直されていても、古くからの由来のある寺院が現在に伝わっているということは、そこに篤い信仰が寄せられ続けている証拠である。