石井宗謙誕生の地 竹内流古武道発祥の地

 幻住寺の参拝を終えて、車を駆って南下し、岡山県真庭市旦土(たんど)にある国玉神社を訪れた。

 ここには、旦土が生んだ江戸時代後期の蘭科医石井宗謙誕生の地の碑がある。

国玉神社

石井宗謙生誕の地の看板

 寛政八年(1796年)に旦土村で生まれた石井宗謙は、文化十年(1813年)に長崎に来ていたシーボルトに弟子入りし、蘭科医になる。

 旦土村に帰って勝山藩医になったが、その後岡山下之町で産科医を開業する。

 今年1月14日の当ブログの記事「オランダ通り」で紹介したように、シーボルトの娘の楠本イネが、下之町の石井の下に来て弟子入りした。

「石井宗謙誕生の地」の石碑

 楠本イネは、ハーフとして差別を受けながらも日本初の女医となった人物で、宮内省の医師として明治時代を生きた。

 イネは師である石井宗謙との間に一女を儲けた。石井宗謙とイネの間に生まれた楠本高子は、クォーターの美女であり、松本零士の「銀河鉄道999」に登場するメーテルのモデルとされている。

 石井宗謙は、幕府の侍医になり、オランダ語の通訳としても活躍したそうだ。文久元年(1861年)に死去した。

 ここから旭川沿いに車を走らせ、途中岡山県道久米建部線を北上し、岡山市北区建部町角石谷(ついしだに)にある竹内(たけのうち)流発祥の地に赴いた。

竹内流発祥の地の碑

 竹内流とは、元文元年(1532年)に一之瀬城の城主だった竹内久盛が創始した武術の流派である。

 久盛は、城主でありながら剣術好きで、小具足と呼ばれる脇差・短刀を用いて武将を生け捕りにする捕手腰廻小具足(とりてこしのまわりこぐそく)という武術を編み出す。 

竹内流道場

 腰廻は、小具足を用いた組手のことである。これが素手で相手を捕える羽手(はで)に発展する。

 竹内流羽手は、文献で確認できる最古の柔術の流派である。竹内流は、日本柔術現存最古の流派とも呼ばれている。

 日本の柔道は、戦国武士が相手を生け捕る際の技術から発展したわけだ。

 久盛は、毛利氏に属していたが、宇喜多氏に敗れて城を失うと帰農した。

 そして二代目久勝、三代目久吉は、久盛の流派を受け継ぎ、武術家として全国武者修行を続けた。

 久勝の時に、この角石谷の地に道場を建てた。元和六年(1620年)に久勝は息子の久吉と後水尾天皇の前で演武を行い、天皇から「日下捕手開山」の御綸旨を賜った。

 以後、久勝、久吉の子孫がこの地で代々竹内流を伝承し、武士や農民の隔てなく武術を教え続けて来た。

 竹内流では、捕手腰廻小具足の他に、棒術、杖術、剣術、居合も教えているそうだ。

 竹内流発祥の地には、3つの道場がある。最も古いものは、文政年間(1818~1830年)に建てられた文政道場である。

文政道場

 文政道場にかかる表札を見ると、薄い字で「愛宕大権現 摩利支尊天社」と書かれたものがある。
 竹内家に伝わる伝説では、初代竹内久盛が、一人で樹木を敵に見立てて短い木刀を用いて鍛錬をしていた時、修行に疲れて木刀を枕にして寝てしまった。その時に、愛宕大権現の化身の山伏が現れ、木刀を2つに折って、久盛を相手に短い小具足を用いた捕手五ケ条の極意を伝授したという。

 以来竹内家では愛宕大権現を祀っているそうだ。

 文政道場の奥には、明治時代の明治道場が、手前には昭和時代の昭和道場がある。

明治道場

昭和道場

 私が訪れた時は、道場には誰もおらず、ひっそりとしていた。留守居の女性が、「すみません、分かる者が皆外出していまして」とおっしゃっていた。

 ここから少し離れた場所に、竹内流の本道場がある。どうやらそこで稽古が行われているようだ。

 日本人が何かをすると、全て道になるというが、戦闘技術である武術も、いつしか道となって武道になった。

 文武両道という言葉もあるが、私は日本に武を尊敬する伝統があることを好ましく思っている。

 文人が築いたものだけでなく、武人の伝統が入ったことで、日本の文化がどれだけ生気を帯びたものになったか、計り知れないものがある。

 須佐之男命の時代から、猛き武士(もののふ)の心は、日本の文化の片面である。