養父神社本殿の奥にあるのが山野口神社であるが、そこに至るまでの参道の脇に、末社迦遅屋(かじや)神社がある。
迦遅屋神社の祭神は、奥津彦命、奥津姫命、猿田彦命、表米親王であるが、別名猫の宮とも呼ばれ、鼠除けの神様として信仰されている。
但馬は養蚕の盛んな地域であるが、養蚕農家にとって鼠は大敵であった。養蚕農家はこぞってこの宮に参拝したことだろう。
さて、この奥にある山野口神社は、山の神様である大山祇(おおやまずみ)命を祀っている。
別称は「山の口の大神」と呼ばれ、流行病と「つきもの」を退ける神様として信仰されている。
社殿は説明板では元禄年中の建築とされているが、施されている彫刻が明らかに中井権次一統のものであり、実際は江戸時代中期以降の建築と思われる。
唐破風下の虹梁や木鼻、手挟みの彫刻が素晴らしい。
本当に稠密な見事な彫刻である。
養父神社の社務所は、神社境内との間に谷を挟んだ場所にある。その谷間に朱色の鉄橋がかかっている。
社務所の建物は、江戸時代後期から明治時代ころにかけての建築かと思われる、丈の高い古民家風の建物である。
神符神札授与所も、木材に古びがついていて、いい味を出している。
この社務所の裏に、養父市指定文化財となっている石造宝篋印塔がある。
塔身の正面には、胎蔵界大日如来を現わす梵字の阿字があり、その左右に「大願主木□□□」「応安二年巳酉八月日」と刻まれている。
応安二年(1369年)に建てられた宝篋印塔だが、昭和30年ころまで社務所北側の庭園内に倒れていたらしい。
江戸時代には、養父神社の別当寺(神社を管理する寺院)として水谷山普賢寺があったそうだ。今社務所のある場所がかつての普賢寺で、この宝篋印塔は普賢寺に建っていたものなのかも知れない。
社務所から山側に歩くと、小さな滝がある。
位置的に山野口神社の少し奥になる。弥高山から染み出た清冽な水がここで滝になっているわけだ。
さて、養父神社を氏神とする養父市場の街は、江戸時代には宿場町で、町の中心にはかつて参勤交代の大名が宿泊した本陣の建物がある。
ところで養父市場は、鯉の養殖が盛んな地域である。
養父市場には、細長い町筋に沿って円山川から用水路が引かれ、そこで鯉が養殖された。
養殖は江戸時代には行われており、当時は食用鯉が養殖されたが、昭和12年ころに新潟県から錦鯉が移入された。
戦時中に一時衰えたが、戦後になって本格的に鑑賞用の錦鯉が養殖されるようになった。
現在全国に普及している墨色の混ざった「黒ダイヤ」系の錦鯉は、養父市場で作られた品種らしい。
さて、但馬と言えば但馬牛である。神戸牛、松阪牛、近江牛といった和牛は、全て但馬牛から分かれた品種である。
円山川対岸には、但馬牛を売買する但馬家畜市場がある。
農業や養蚕、牛馬の飼育を行ってきた養父郡の人達からしたら、衣食住の神様である倉稲魂命を祀る養父神社は、自分たちの生活を守ってくれる神様である。
静かな養父市場の街並みを眺めて、養父神社の御加護は今も確かに続いていると感じた。