旧美歎水源地水道施設の前の道を北上すると、稲葉山の北側に出る。
稲葉山は、標高約249メートルの低山だが、因幡国一宮の宇倍神社の宮山であり、因幡の国名の由来にもなった山である。
稲葉山は、因幡国庁跡からもよく眺めることが出来る。古墳時代には、因幡の有力者の古墳が稲葉山に築かれた。
稲葉山の山頂近くに、因幡国司となった在原行平の墓があるという。行平塚と呼ばれている。
稲葉山の北側にある上野神社から西に行くと、途中で左に入る道がある。
この道を左に入って暫く行くと、左手に行平塚がある。
在原行平は、平城天皇の皇子である阿保親王の次男で、臣籍降下し、在原姓を名乗った。「伊勢物語」に出てくる在原業平の兄である。
行平は、歌人としても著名だが、本職は公卿、つまり上級官人である。
行平は、斉衡二年(855年)に因幡国司となり、因幡国庁に赴任した。
だがその2年後の斉衡四年(857年)に京に戻り、兵部大輔になる。
行平は、因幡には2年しかいなかったが、国司として因幡一宮の宇倍神社には参拝したろうし、稲葉山にも登ったことだろう。
行平は、因幡を去る時に、別れを惜しむ因幡の人々に、「立ちわかれ いなばの山の 峰に生ふる まつとしきかば 今帰りこむ」という歌を贈った。
皆さんと立ち別れて、私が都に去ったとしても、稲葉の山の峰に生えている松のように、皆さんが待っていると聞いたなら、すぐにでも帰ってきましょう、という歌意か。
もし私が去ったなら、という意味の「去(い)なば」と稲葉を掛けている。また、松と「待つ」を掛けている。
2つの掛詞が、この歌の2つのピークを示している。その2つのピークは、去ると待つという、別れに因んだ言葉である。
なかなか技巧に富んだ歌だ。この歌は、「小倉百人一首」に選ばれている。
「今帰りこむ」と詠った行平だが、もちろん生涯において二度と因幡には帰って来なかった。
行平は、寛平五年(893年)に京で死んだ。この塚は、行平を慕って、帰りを待ち望んだ地元の人たちが、行平を偲ぶために作った塚だろう。
行平塚の上には、宝篋印塔の基礎と笠、相輪が重ねて置いてある。宝篋印塔が日本に出現したのは、鎌倉時代以降である。
この宝篋印塔の残欠は、行平塚が築かれて相当後になってからここに置かれたものだろう。
さて、行平塚から、稲葉山山頂を目指した。意外と平坦な道であった。途中、稲葉山の道標地蔵というお地蔵様があった。
この山道は、因幡から但馬に抜ける近道として利用されていたそうだ。
お地蔵様には、「左一宮二十四丁」という宇倍神社までの距離と、「文化十三年(1816年)四月吉日」という年月が刻まれている。
長年この場所で旅人を見守ってきたお地蔵様だ。
ここから更に歩いて山頂を目指した。
山頂付近まで来ると、右手に笹の生えた野原がある。笹をかき分けて進むと、西に向かって眺望がきく場所に出た。そこから鳥取市街と日本海を遠望出来た。
だが、稲葉山の山頂に行く道は分からず、諦めて引き返すことになった。
私は、稲葉山の山頂付近の土を踏めただけで満足した。
古代の日本人は、円錐形の綺麗な形の山を神奈備山として信仰した。
大和で言えば、三輪山が神奈備山である。大和王権最古の都と言われる纏向遺跡から、三輪山はよく見える。三輪山は、日本を統治した最初の政権が信仰した山なのだ。
現代では、富士が日本人全員にとっての神奈備山のようなものだろう。
古来から、神奈備山は、人が死後に行く場所とされてきた。地方に行けば、その地方の神奈備山に古墳群があったりする。稲葉山の山麓にも古墳群がある。