三重塔の前の石段を登り、名草神社の社殿に向かった。
名草神社は、標高約1139メートルの妙見山の中腹にある。社のある場所の標高は、約800メートルである。麓より早く紅葉が色づき始めていた。
三重塔から名草神社社殿に向かうには、舗装された坂道を通るルートと、石段を登るルートの二通りがある。
坂道の左右には、妙見杉と呼ばれる寒さに強い自生の杉が林立する。社殿まであと一丁という場所に、一丁と彫られた石地蔵が置かれている。
江戸時代までは、今の名草神社は日光院の奥の院であった。麓にある現在の日光院から奥の院まで、かつて一丁毎に丁石が置かれていた。日光院の記事で紹介したように、今の日光院には、この丁石が集められて祀られている。
奥の院まであと一丁のこの丁石だけ、記念に残されたのだろう。
石地蔵の裏には、「寛政二庚戌五月」と刻まれている。寛政二年は1790年だ。当時の日光院が厚く信仰されていたのを感じる。
さて、もう一つのルートの石段を登ると、正面に拝殿と本殿、左側に社務所が建っている。
社務所の前にカラーコーンが置かれている。実は名草神社は平成24年3月の雪害で、拝殿と本殿の屋根が破損し、雪の重みで基礎も沈下した。平成27年から現在まで、社殿の修復工事が続いている。おかげで、修復したての瑞々しい社殿を見学することが出来た。
社務所は、元禄八年(1695年)の建築である。兵庫県指定文化財である。
こんな大きな建物が、但馬の高地で風雪を凌いで今も存在しているのが信じがたい。そしてまた向拝の彫刻が見事であった。
名草神社の彫刻も、中井権次一統の作かと思いきや、どうも違うようだ。丹波の常勝寺で入手した中井権次作品のガイドマップには名草神社は載っていない。元禄時代は、中井権次一統が活躍する時代よりは前だ。
しかし、これほどの彫刻である。一角の彫刻家の作だろう。
さて、拝殿と本殿に向かう。この2つの建物の周辺は現在も工事中で、作業員の方たちが作業をしておられた。
実は私は、今から数年前に名草神社を訪れたことがある。その時は、社殿がかなり傷んでいた覚えがある。雪害のあった平成24年から修復工事開始の平成27年までの間のことだったのだろう。
拝殿は、元禄二年(1689年)の建築である。国指定重要文化財である。
修復工事前は、拝殿の下の石垣も崩れていた。曳家工法で拝殿をずらし、石垣も組み直された。
拝殿も解体されて、杮葺の屋根は葺きなおされ、柱は新たに彩色された。絵馬も修復されたものだろう。
このブログの記事がいつまでネット上に残っているかは分らぬが、もし50年後にも残っていたとすれば、名草神社の修復直後の姿を伝えるものとして、一種の史料になっているかも知れない。
拝殿を潜ると、正面には本殿がある。本殿は、宝暦四年(1754年)の建築で、これも国指定重要文化財である。
入母屋造、杮葺きで、屋根に軒唐破風、千鳥破風の付いた建物である。見たところ京都の北野天満宮拝殿に似ている。
左右に華頭窓があり、元々寺院建築だったことを表している。この建物の特徴は、ユニークな彫刻群にある。
本殿屋根の鬼飾りには、神紋の七曜紋がある。元々妙見大菩薩がここに祀られていたことの証である。
名草神社の主祭神は、名草彦大神である。神武東征の時に、紀伊国名草邑で神武天皇軍を迎え撃った名草戸畔(なぐさとべ)の祖神であるという。
なぜここに紀伊の神様が祀られているのか。社伝では、敏達天皇の御代に、この地に悪疫が流行った際、紀伊国名草郡出身の養父郡司が故郷の神様を勧請したとされている。
本殿には、名草彦大神に相殿に祀られる六柱の神様を入れて、七座の神様が祀られている。中世には、北斗七星の化身・妙見大菩薩と習合された。
向拝の下の彫刻群は、どれも遊び心に溢れている。
特に木鼻の獅子は、欠伸をこらえるかのように手で口を抑えたり、手で耳をかいたりしていて、ユーモラスなお姿だ。
彫刻自体が新しく見えるし、姿も現代風なので、私はてっきり、修復工事に際し、現代の彫刻家が作り直したものだと思っていた。
しかしネット上で修復前の名草神社本殿の彫刻を見てみると、今の彫刻と形は同じであった。修復に際し、彫刻を磨いて色を塗りなおしたものと見える。
宝暦年間に、こんな遊び心のある彫刻が彫られていたのだ。
それにしても、修復中の鮮やかな社殿を見学出来たのは、大きな収穫であった。
ここ最近、日光院と名草神社を続けて紹介したが、この2つの社寺を一体のものと捉えた方が、但馬妙見信仰の全体像を理解できるだろう。
但馬の山奥に、このような信仰と立派な建築物が今も残っているのは、新鮮な驚きであった。