兵庫県養父市大藪にある但馬家畜市場から少し東に行った山麓に、6~7世紀に築かれた古墳群がある。大藪古墳群と呼ばれている。
私は、養父(やぶ)という地名の語源を知らないが、ひょっとしたらこの藪から来ているのかも知れない。
大藪古墳群には、数十の古墳があるが、その中で代表的な3つの古墳を訪れた。3つとも兵庫県指定文化財である。
一つ目は、禁裡(きんり)塚古墳である。
禁裡塚古墳は、畑や墓地のある里山の中にある。案内標識を見てどきっとした。「熊が出ます」とある。
実は但馬や因幡の史跡巡りをしていて、山の中に入るとき、最も気にしているのは熊の存在である。
このまま史跡巡りを続けていくうちに、どこかで熊に遭遇する日が来るだろうが、なるべくそうならないように対策を練るしかない。
禁裡塚古墳は、東西約32メートル、南北約34メートルの円墳で、6世紀後半に築かれた古墳である。
石室は、但馬の古墳の中で最大級で、古墳の東側に開口部がある横穴式石室である。全長約12.5メートル、玄室は長さ約5.9メートル、幅約3.0メートル、高さ約3.5メートルである。
古墳東側に開口した石室入口から中を覗いたが、真っ暗である。まさか中に熊が隠れていないだろうかとどきどきしながら石室に入って行った。
屈みながら石室の羨道を通る。玄室は息を呑む大きさである。幸い熊はいなかった。
玄室内部の石の表面には、朱色の塗料が塗られている。ベンガラを塗っていたのだろう。
玄室から石室入口を見ると、外部の光が眩しいほど輝いている。
羨道から外に出ると、黄泉の国から現世に帰って来た気分になる。
さて、禁裡塚古墳から東に行くと、こうもり塚古墳がある。
こうもり塚古墳は、禁裡塚古墳よりは新しく、7世紀前半の築造と言われている。
もともとは円墳だったのだろうが、外形はかなり崩れ、石室が一部露出し、古墳上には小祠が2つ祀られている。
露出した天井石の上に木が根を張っている。植物の逞しさを思い知る。
元々の古墳が、この巨石を覆うほどの高さまで盛土されていたとすると、どうやらこの古墳は人為的に墳丘を削られたようだ。
石室は、禁裡塚古墳よりは天井が低く、狭い。
石室入口の天井石の巨大さに圧倒される。
半ば石室が露出した古墳というものは、何だか時の経過を感じていいものだ。
このこうもり塚古墳は、山裾の平地にあるのだが、ここから山に少し入ったところにあるのが、塚山古墳である。
塚山古墳は、南に延びる尾根の先端に築かれた古墳で、南北約30メートル、東西約24メートル、高さ約8メートルの円墳である。6世紀後半に築かれたとされている。
分りにくいかも知れないが、上の写真の中央から少し上に石室の開口部がある。
塚山古墳の石室は、全長約11.2メートル、玄室の長さ約4.8メートル、幅約2.5メートル、高さ約3.6メートルである。
玄室の石は、禁裡塚古墳ほど明瞭には残っていないが、うっすらと朱色を呈している。驚くべきは、一枚の天井石の巨大さである。
この石室に使われた巨大な石をどこで調達して、どうやってここまで運んで、組み立てたのだろう。
古墳時代の日本には、高度な土木技術が伝わっていたと言えるだろう。
大藪古墳群の古墳は、6世紀後半から7世紀前半に築造されたものである。西暦で言うと、紀元600年前後の築造となる。
当時の首長やその家族の墓と思われる。但馬には、養父市より北にはそれほど大きな古墳はない。
古墳時代までは、朝来市や養父市と言った但馬南部が開発の中心だったのだろう。
その後、奈良時代になって、但馬国府や国分寺が今の豊岡市南部に造られた。開発の波が少しづつ北上したのだろう。そして現在但馬で最大の街は豊岡である。
古墳や遺跡が築かれた年代を知るだけで、地域の過去の姿が見えてくる。時間の経過を追うことは、楽しいものである。