兵庫城跡 大輪田泊の岩椋

 神戸市兵庫区大輪田橋の西詰から北に向かって、新川運河のプロムナードが続いている。

 新川運河は明治時代に掘削された運河である。

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新川運河

 かつて運河の東側の中之島には、中央市場があったが、今はイオンモール神戸南店が建っている。

 プロムナードは、散歩客やジョギング客などが歩いたり走ったりしている。

 散策していると、塀の上に並んだユリカモメたちの姿が目に留まった。近寄っても逃げ出す気配がない。

 望遠機能の貧弱なRX100でも、近寄って写真に収めることが出来た。

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プロムナードで出会ったユリカモメたち

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 それにしても、ユリカモメたちは、なぜこんなに密集しているのだろう。

 新川運河の水面には、様々な水鳥が浮かんでいる。山中の野鳥を見ようと思っても、警戒されてすぐ逃げられてしまうが、水鳥は、人間が近づいても、悠然と泳いでいることが多い。水鳥を観察するのは、なかなか飽きが来ないものだ。

 さて、この新川運河は、先ほども書いたように明治時代になって開削されたものである。

 奈良時代行基菩薩が開いた大輪田泊のころから、この地は湊として栄えた。

 平清盛大輪田泊を修築し、経ヶ島を築いて日宋貿易の拠点とした。鎌倉時代以降は、大輪田泊は兵庫津と呼ばれ、江戸時代には北前船の寄港地になった。

 しかし、昔から、西から兵庫津に入港する船は、波風の強い和田岬沖を通過しなければならず、多くの船が難破した。

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兵庫港の運河開削計画

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安政六年(1859年)の兵庫津(左側が南)

 明治時代になって、東尻池村(今の神戸市長田区東尻池)のあたりから兵庫港につながる運河を開削する計画が持ち上がった。

 先ず明治9年(1876年)に兵庫港内に新川運河が出来たが、資金難からそれ以上の運河開削は出来なかった。

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明治14年1881年)の兵庫港(左側が南)

 明治32年(1899年)になって、ようやく東尻池から新川運河につながる兵庫運河が完成した。兵庫運河を開削したときに出た土砂を使って、人口の島である苅藻島が造られた。

 兵庫運河が完成したことにより、西からきた船は、和田岬を迂回せずとも、運河を通って兵庫港に入れるようになった。

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現在の地図と元禄絵図の合成図

 ところで、今は新川運河が通っている場所に、かつて兵庫城が存在していた。上の写真は、兵庫港の現在の地図と元禄絵図を合成した図だが、オレンジ色に塗られた場所が兵庫城があった場所だ。

 新川運河の西側の、旧兵庫城の跡地に、兵庫城跡の石碑が建っている。地名で言えば神戸市兵庫区切戸町になる。

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兵庫城跡の石碑

 天正八年(1580年)、信長の家臣の池田恒興、輝政父子は、信長に反旗を翻した荒木村重の支城だった花隈城を攻略した。

 信長から兵庫の地を与えられた池田恒興は、花隈城を廃城として兵庫城を築く。

 元和三年(1617年)には、兵庫津は尼崎藩領となり、兵庫城跡に藩の陣屋が置かれた。

 明和六年(1769年)には、幕府の直轄領となり、兵庫城跡は大坂町奉行所の勤番所となり、与力・同心が詰めた。

 慶応四年(1868年)1月、新政府はここに兵庫鎮台を置いたが、同年2月には兵庫裁判所となり、更に同年5月には兵庫県が設置され、この地に最初の兵庫県庁が置かれた。そして初代兵庫県令(知事)伊藤博文が着任した。

 ちなみに兵庫県庁は、同年9月に今の神戸地方裁判所のある場所に移転し、明治6年になって現在地に移転した。

 私の住む兵庫県が誕生して今年で153年になるわけだ。しかし現代人に馴染みの深い都道府県も、所詮人間が作ったものである。兵庫県もいつまでもあるわけではあるまい。

 兵庫城跡から北にしばらく歩くと、大輪田泊の岩椋(いわくら)を展示した場所がある。

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大輪田泊の岩椋

 大輪田泊は、奈良時代行基菩薩が築いた湊である。

 昭和27年に、新川運河の浚渫工事を行っていたところ、運河の底から一定間隔で打ち込まれた松杭と、巨石20数個が見つかった。

 平成15年の付近の発掘調査によって、ここから北西約250メートルの場所に港湾施設があったことが明らかになった。

 港湾施設との位置関係から、これらの巨石は、大輪田泊の防波堤か突堤の基礎を構成していた石椋と見られる。

 展示されている岩椋は、発見された巨石の一つである。重量は約4トンある。

 歴史の推移に伴って、地形や街道や町割りなどは大きく変化していくが、海岸沿いの変化はより甚だしい。

 兵庫港は、日本有数の歴史を持つ港である。海洋国家日本の原型を見る思いがする。