札場の辻跡から西に約150メートル歩いた先に、天台宗の寺院、宝積山能福寺がある。
能福寺は、伝教大師最澄の開基とされている。延暦二十四年(805年)、最澄が唐からの帰路に大輪田泊に上陸した。住民は最澄を歓迎し、堂宇を建立して教化を請うた。最澄は自作の薬師如来像を堂に据えて寺院を開き、能福護国密寺と称した。
平清盛は、仁安三年(1168年)、この能福寺で剃髪出家したという。その時の清盛の師は、円実法眼という僧であった。
治承四年(1180年)、福原に移った平氏一門は、能福寺に帰依した。
円実法眼の弟子となった清盛の甥の小川忠快法印が七堂伽藍を整備し、兵庫随一の勢力を誇る寺院となった。能福寺は、その威容から、八棟寺とも呼ばれた。
養和元年(1181年)、清盛は京で病死した。寺伝によれば、清盛の遺体は荼毘に付され、遺骨は円実法眼により八棟寺に運ばれ、境内に埋葬されたという。
しかし平氏滅亡後、八棟寺(能福寺)はことごとく破壊され、清盛の墓所も破壊されて所在が分からなくなった。
弘安九年(1286年)、執権北条貞時は平氏の栄枯盛衰を哀れみ、近くに清盛の供養塔を建てた。これが、今年2月17日の記事で紹介した清盛塚である。
昭和55年、清盛公800回大遠忌を記念して、能福寺に平清盛公墓所平相国廟が再建された。
廟所中央には石造十三重塔が建つが、これが清盛の供養塔だ。
その右側には、清盛の出家の師である円実法眼の供養塔である宝篋印塔が建つ。
この宝篋印塔は、鎌倉時代の作である。
石造十三重塔の左隣にある九重塔は、小川忠快法印の供養塔とされている。
この九重塔も鎌倉時代の作とされている。
境内には、慶応四年(1868年)1月に発生した神戸事件の責任を取って自決した滝善三郎の供養塔が建っている。
神戸事件が発生したのは、大政奉還後、明治新政府が樹立されたが、まだ戊辰戦争中だった慶応四年1月11日である。
西宮の警備のため西国街道を東進していた備前藩兵の行列が、神戸三宮神社前に差し掛かったころ、行列をフランス水兵が横切ろうとした。
これを無礼と見なした備前藩士滝善三郎が、フランス水兵に槍で突きかかり軽傷を負わせた。
これが原因で、備前藩兵とフランス水兵との間で銃撃戦が発生した。備前藩は外国人居留地の予定地を見に来ていた各国公使をも水平射撃した。
現場に居合わせたイギリス公使パークスは激怒した。居留地保護の名目で、神戸港沖に停泊していた米英仏艦隊から外国兵が上陸して備前藩兵を追い払い、神戸の中心地を占拠した。
外国は明治新政府に関係者の処罰と滝善三郎の処刑を求めた。
当時の明治政府は、まだ攘夷を唱えていたが、流石に外国の圧力の前に非現実的な攘夷方針を撤回し、関係者の処罰の求めに応じることとなった。
滝善三郎は事件の責任を負い、兵庫津の永福寺で、外国人代表立会の下、割腹自決した。
神戸事件は、明治新政府が成立してから初めて経験した外交事件であり、朝廷が攘夷から外国和親に方向転換したきっかけとなった事件である。
神戸市民は、責任を負って自決し、事件を解決に導いた滝善三郎を称えて永福寺に供養碑を建てた。昭和8年には、木製の供養碑に替えて現在の石造供養塔が建てられた。
永福寺は昭和20年の神戸大空襲で焼失したが、残っていた滝善三郎供養塔が昭和44年に能福寺境内に移転された。
滝善三郎は、江戸時代の武士の定めに従って行動し、自決した人だが、その昔ながらの行動が、新日本を開くきっかけになったのは興味深い。
能福寺は平氏滅亡後、暦応四年(1341年)に震災により全焼したが、慶長四年(1599年)に長盛法印により再建された。
明治初年の神仏分離令により、仏教界は大きな打撃を受けたが、兵庫の豪商南条荘兵衛の発願により、明治24年(1891年)に能福寺に巨大な盧遮那大仏が建立された。兵庫大仏と呼ばれ、奈良、鎌倉の大仏と並んで日本三大仏と呼ばれた。
兵庫一帯は、当時神戸第一の繁華街であり、兵庫大仏には参詣客も多く訪れ、香の絶える間もなかった。
しかし昭和19年5月、大東亜戦争で資源不足に悩まされた日本政府が出した金属回収令により、巨大な兵庫大仏はハンマーで叩き壊されて回収されてしまった。
地元市民は戦後も兵庫大仏の復活を望み続け、市内の有力企業の協賛を得て、遂に平成3年5月に2代目兵庫大仏である胎蔵界大日如来像が完成した。
今の兵庫大仏は、仏師の西村公朝が監修したとされている。
建てられて30年になるが、優しい表情をしたなかなか美しい仏像だ。
最澄が日本帰国後初めて開いた寺院の法灯を守るかのように、優美な大仏が優しい眼差しを投げかけている。