荒田八幡神社 宝地院

 今年の1月11日以来、約半年ぶりに摂津の史跡巡りを行った。

 今回訪れたのは、神戸市兵庫区から神戸市北区山田町周辺の史跡である。

 まず紹介するのは、神戸市兵庫区荒田町3丁目にある平家ゆかりの荒田八幡神社と宝地院である。

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荒田八幡神社

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荒田八幡神社鳥居

 荒田八幡神社は、小高い丘の上にある小さな神社である。古くは高田神社と称して、熊野権現を祀っていた。

 高田神社の南西にある宝地院の境内にあった八幡社が、神仏混淆を避けるため、明治31年(1898年)に高田神社に合祀されることになり、以後荒田八幡神社と呼ばれるようになった。

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荒田八幡神社社殿

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狛犬

 今の神戸市兵庫区北側の地は、かつては福原と呼ばれ、兵庫津を日宋貿易の拠点とした平清盛が都を置こうとした場所である。

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福原京関連マップ

 一時は平家一門の邸宅が並び、その贅を尽くした造作の様子は、当時の紀行文「高倉院厳島御幸記」などに書かれているという。

 この荒田八幡神社の建つあたりは、清盛の異母弟平頼盛の邸宅があった場所とされている。

 治承四年(1180年)6月、清盛は福原への遷都を強行する。6月3日に安徳天皇平頼盛の邸宅に移し、内裏にした。

 しかし翌日6月4日には、ここより北の雪見御所にいた高倉上皇平頼盛邸に移り、安徳天皇と御所を交換することになる。

 言うなれば、荒田八幡神社は、一日だけ皇居だったわけだ。

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安徳天皇行在所址の石碑

 境内には、安徳天皇行在所址の石碑が建っている。

 この地に移った高倉上皇は、治承四年10月まで過ごした。

 清盛の福原遷都の構想は、高倉上皇が京から都を遷すことに乗り気でなかったことと、源氏の挙兵に対抗するため平家一門が福原から京に戻ったことから立ち消えになった。

 荒田八幡神社の南西には、弘安二年(1279年)に安徳天皇の菩提を弔うために建てられた浄土宗の寺院、宝地院がある。

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宝地院

 宝地院の敷地内には保育所があり、防犯のためか敷地内に入ることが出来なくなっていた。

 敷地外から本堂の写真を撮ることしか出来なかったが、本堂よりもその背後にある奇妙な角のようなものの付いた建物の方が気になった。

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宝地院本堂

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 この奇妙な建物、最上階に展望室のようなものがある。一体何なのだろう。

 さて、神戸大学医学部附属病院のある神戸市中央区楠町から神戸市兵庫区荒田町にかけて広がるのが、平家の邸宅群の遺跡とされる楠・荒田町遺跡である。

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神戸大学医学部附属病院

 昭和56~57年に行われた発掘調査で、附属病院の敷地から二本並行する壕の跡と大型の建物跡が見つかった。

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並行する二条の壕の跡

 壕の中からは、12世紀後半の京都系の土師器皿や、中国から輸入したと見られる青磁白磁などが見つかった。

 発掘された遺物から、発掘されたのは平家の邸宅と、それを囲んだ壕の跡と推察される。

 発掘された壕の上には、現在は神戸大学医学部附属病院の立体駐車場が建っている。

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立体駐車場

 立体駐車場の入口脇に、楠・荒田町遺跡の説明板が掲示されている。壕の遺跡は、傷つけないように砂で埋め戻し、立体駐車場の地下に保存されることになった。

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二条の壕の見取図

 清盛の福原遷都構想は頓挫した。神戸の地は良港に恵まれているが、六甲山と海に挟まれ、条坊制の都を置くには狭い。しかし、貿易港のすぐ傍に都を置くという清盛の発想は、なかなか雄渾である。

 もし実現していたら、当時世界最高の文化水準を達成していた北宋の影響を多分に受けた文化が日本に誕生していたかも知れない。