安楽寺の見学を終えて、南丹市八木町八木内山にある八木城跡に赴いた。
八木城跡は、兵庫県丹波市の黒井城跡、兵庫県丹波篠山市の八上城跡と並んで、丹波三大山城と言われている。
八木城跡は、標高約330メートルの城山上にある戦国山城の跡である。

八木城を拠点としたのは、内藤氏である。
内藤氏は、室町時代初期に戦功を挙げたことにより、足利尊氏から八木の地を賜り、八木城を築城したとされている。
細川氏が丹波守護だった永享三年(1431年)に、内藤氏は丹波守護代に任命された。

内藤氏は八木城を拠点に勢力を拡大した。
八木城最後の城主は、キリシタン武将として知られる内藤如庵(ジョアン)である。
城跡の入口付近に内藤如庵の碑が建っている。
如庵は、内藤宗勝の子として八木城に生まれ、永禄八年(1565年)頃、南蛮寺で洗礼を受けて切支丹となった。

如庵は、室町幕府15代将軍足利義昭に仕えていたが、義昭が信長により京から追放された後、信長と対立した。明智光秀の丹波攻略に際して攻撃を受け、天正七年(1579年)に八木城は落城した。
落城後、如庵は鞆の浦に隠棲していた義昭の下に奔ったが、その後キリシタン大名小西行長に召し抱えられた。

如庵は、文禄の役に際しては、講和使節の任を帯び、朝鮮を経て明に入り、北京にて明国皇帝に謁見した。
関ケ原の合戦で小西行長が属した西軍が敗れると、加賀藩の前田利家に仕えたが、慶長十九年(1614年)の幕府によるキリシタン追放令を受けてマニラに逃れ、寛永三年(1626年)にその地で死去した。波乱万丈の生涯であった。
八木城跡は、南北約900メートル、東西約700メートルの規模を誇る連郭式山城である。

城郭の縄張図を見ると、曲輪の形が、十字架のように見える。
城跡の入口は、城山の北東側にある。京都縦貫自動車道の高架の下を潜ると、城跡の登り口がある。
登り口から登り始めると、複数の削平地が現れる。そしてあちこちに供養塔の残欠が放置されている。


ここは、内藤氏の家臣団の屋敷跡である。
麓から城跡までは、徒歩で約40分の行程である。
歩いていくと、対面曲輪所跡と本丸跡への分かれ道がある。

対面曲輪所は、城の門番が居た場所で、堀切と土塁からなっている。


この近くに、城の大手門があったことだろう。

ここからが、城の防御施設である。
先ほどの分岐点に戻り、本丸目指して歩くと、かえる岩があった。

当時山道にある岩を立てかけて塀が建てられていた。その岩の一つが倒れた姿がかえるに似ていたことから、この名が付いたようだ。
私はかえる岩を越えて、本丸跡に向かった。