西宮市久保町に、宮水発祥之地碑と陰刻された石碑が建っている。


江戸時代以降、武庫川から生田川の間は、灘五郷と呼ばれる酒造地帯であった。
西宮郷もその一つであった。
江戸時代の酒は、「秋落ち」と言って、夏を越して秋になると味が落ちた。ところが西宮郷の酒だけが、秋になるとむしろ味が冴えて、「秋晴れ」と称えられていた。
西宮の酒にだけ、何故「秋晴れ」が起きるのか。魚崎郷と西宮郷の両方に蔵を持っていた酒造家山邑太左衛門は、その謎を追究した。

山邑は、天保十一年(1840年)に、その原因が仕込み水にあることを発見した。
西宮郷が使用していた水は、塩分を適度に含み、鉄分が極めて少なく、香りの悪化を防いでいる。またカルシウム、カリウム、リン等の含有量が多い。リンの含有量に至っては、他の水の約10倍で、これが酵母の成長を助けている。
この発見以降、灘五郷はどこも西宮の宮水を仕込み水として使うようになった。
昭和40年に、山邑太左衛門が使った梅の木井戸の跡に、宮水保存調査会が宮水発祥之地碑を建てた。

宮水発祥之地碑の東側には、西宮の3つの蔵元が、阪神淡路大震災からの復興を記念して造った宮水庭園がある。

宮水は、戎、札場筋、法安寺という六甲山系の三つの伏流水が、宮水地帯でブレンドされて出来ている。

古代の西宮は、海岸が今よりも内陸に入り込んだ入海になっており、宮水地帯では、貝の化石で出来た細砂層の上に砂礫層が堆積している。
これらが帯水層となって、六甲からの地下水を湛えているのである。


宮水が蓄えられているのは、地下2~3メートルで、海水面とほとんど変わらない。
そのため、明治末年から大正にかけての西宮港修築工事や、昭和9年の室戸台風襲来では、宮水地帯に海水が浸入し、宮水地帯が縮小した。
また大正時代には、西宮の人口増加により井戸水の使用量が増加し、宮水に枯渇の危機が訪れた。
大正13年に灘五郷の酒造家は、宮水地帯の全町に上水道を寄付し、宮水を守った。
今でも宮水地帯で土木建設工事をする時は、帯水層や水脈を壊さぬように細心の注意が払われているという。
灘五郷の酒の味は、この宮水維持の努力の上に成り立っているのだ。
次に西宮市鞍掛町にある酒造家辰馬喜十郎の邸宅跡である旧辰馬喜十郎住宅を訪れた。

辰馬喜十郎は、弘化四年(1847年)に生まれた。辰馬家は、江戸時代初期から続く西宮の富豪である。
辰馬家は、辰馬本家酒造の経営者でもあった。
喜十郎は、明治21年に山下という大工を使って、神戸英国領事館を模してこの家を建てた。


旧辰馬喜十郎住宅は、公開されていないので外部からしか見学できない。
この当時の擬洋風建築の大半が木造だったのに比べ、この建物は石造のようだ。


内部には大理石の暖炉がある一方で、畳敷きの部屋もあり、洋の中に和のテイストも含まれているそうだ。
建物1階の周囲には、石畳の回廊が巡り、2階ベランダを支える石造の円柱が並んでいる。


また、二階建ての母屋には、浴室とトイレのあるレンガ造りの附属屋が付いている。


現在日本酒は、世界中で愛されるようになった。日本酒を支えているものには、様々な要素があるだろうが、先ずは水が大事であろう。
古代からの西宮の地勢が生んだ奇跡の水と言ってよい宮水が、銘酒を生み出し続けていることに感謝したい。