生野銀山の坑道入口手前に、鉱山資料館がある。
この資料館には、江戸時代の生野銀山での作業を再現した模型や、江戸時代、明治時代の鉱山関係の文書資料、鉱石、貨幣などが展示されている。
生野銀山からは、金、銀、銅、亜鉛、鉛、錫などが発掘されたが、それぞれの鉱石の現物が展示されていた。
こんな大きな鉱石でも、中に含まれている鉱物は僅かである。鉱物と脈石を分離する選鉱という工程が重要である。
天保十五年(1844年)に生野銀山の山師によって描かれた「鋪内絵図面」が展示されている。
御覧の様に、蟻の巣のように穴を掘り進んでいるが、江戸時代には穿岩機などなく、全て鑿と金槌を使った手掘りであった。気の遠くなるような作業だ。
資料館で圧巻なのは、江戸時代後期の坑内の作業を15分の1の模型で再現した、生野銀山鉱山模型である。
この模型では210人の人々が働いているが、実際の鉱山では山中だけで数千人の人間が働いていたそうだ。
模型の地層の中で黒い縞になっているのが鉱脈である。これが人々にとっての宝物である。
鉱山の作業は、先ず探鉱、そして測量、穴を掘っての採鉱、鉱石の運搬となる。掘り出された鉱石は検査され、選鉱、精錬、鋳造という過程を経て金属になる。
それ以外にも、様々な仕事がある。坑道を維持するための支柱を設置したり、穴を掘ったら出てくる地下水を汲み上げたり、坑内を換気するために空気を送ったり等々。
当時は電気がないから、暗い坑内での照明は、サザエの貝殻に入れた菜種油を燃料とした灯火であった。
菜種油の照明に頼った暗闇の中での過酷な作業である。模型でも、休憩の様子が再現されているのがまだ救いか。
但し後にも紹介するが、坑道内は、自然現象で年間を通して気温13℃に維持されている。作業をするには丁度良い気温だったのではないか。
資料館には、江戸時代に坑内の上り下りに実際に使われていた雁木梯子が展示されていた。
こんな細い梯子に自分の身体を預けるのは心もとない。地下足袋は必須だろう。
江戸時代には、こうして採掘された金銀銅が貨幣として鋳造され、日本の商品経済を支えた。
館内には、天正年間から江戸時代までの貨幣が展示してある。
天正年間は、まだ日本の鉱山で金銀が採掘され始めて間がないので、豊富に金が採れたことだろう。大判の金の純度も高かったことだろう。
館内には、生野鉱山で勤務していた方が生野町内で発見した、1億年前の「波の化石」を展示していた。
波が砂に付けた波紋が、そのまま石化したのだろうか。非常に珍しいものだ。
生野町指定文化財の見石飾幕は、江戸時代後期から明治初期に制作されたものだ。
この飾幕は、自分たちの鉱山が最高位の鉱山の名称を得た時に、その鉱山から採れた鉱石を山車の上に載せて引き回す際の、山車の飾幕である。
この飾幕で飾った山車に鉱石を載せて引き回す時が、毎日暗い坑内で厳しい作業をする人夫たちにとって、最高に栄誉ある瞬間だったろう。
生野銀山は、明治時代には宮内省御料鉱山だったが、明治29年に三菱合資会社に払い下げられた。
三菱は、明治34年に、鉱山の生産設備の動力を火力、水力から電力に切り替えた。
大正8年(1919年)には、電力需要の増加に伴い、生野水力発電所を新設した。
平成11年(1999年)に、生野水力発電所の設備更新のため、80年間使用された旧水力発電設備が鉱山資料館に展示されることになった。
この設備は、大正7年(1918年)に、三菱神戸造船所が製造したものだそうだ。80年間も現役で動き続けた機械というのは素晴らしい。
私も男の子の例に漏れず、力を生み出す機械が好きだ。
生野銀山の連載を始めてまだ銀山内部に到達しない。しかしこの銀山には見所が多い。
後に紹介する明延(あけのべ)鉱山、神子畑選鉱場と、姫路まで鉱物を運んだ銀の馬車道、鉱物を積み上げた船が出帆した飾磨港(姫路港)とセットで、生野銀山がもっと注目される日がいつか来るだろう。