神子畑選鉱場跡の前の広場には、通称明延一円電車と呼ばれた電車が展示されている。
養父郡の明延鉱山と神子畑選鉱場との間を、鉱石と乗客を運ぶために走った電車である。
遊園地の乗り物の電車と大差ないような小さな電車である。一度乗ってみたかった。
戦後間もないころから、廃線となった昭和62年まで、旅客運賃が1円に固定されていたことから、一円電車と呼ばれた。かつて線路のあった場所には、今は立ち入ることは出来ない。
神子畑選鉱場跡には、神子畑選鉱場や明延鉱山のジオラマや、鉱山ゆかりの品々を展示した資料館がある。
このジオラマの神子畑選鉱場の上を通っているのが、一円電車である。あんな高いところを、先ほど紹介した小さな車体が走っていたのである。乗るだけでわくわくしそうだ。
ジオラマの左下には、職員宿舎や共同浴場、小学校がある。神子畑選鉱場が稼働していた時代には、工場全体が一つの町になっていたのだ。
さて、ジオラマ写真の右下にある旧神子畑鉱山事務所が、現在も残っている。
旧神子畑鉱山事務所は、明治5年(1872年)に、生野鉱山の外国人宿舎として建てられた。
神子畑鉱山の開発に伴い、明治20年(1887年)にこの地に移設された。
この建物は、フランス人レスカスと日本人加藤正矩が設計したと記録されている。レスカスは、明治村に移築保存されている西郷従道邸の設計者でもある。
明治初期に建てられたコロニアル・スタイルの特徴を良く残しており、正方形の建物の中心を廊下が真っすぐ通り、廊下の左右に二部屋づつ部屋が造られ、建物の四方はベランダが囲っている。窓とドアを開ければ、風が建物内を吹き抜ける。
瀟洒で開放的な建物だ。
こういう真四角で左右対称の家に住んでみたいというのが昔からの夢である。
この建物には、生野鉱山で働いたフランス人技師ムーセが住んでいたのではないかと伝えられており、そのためムーセ旧居とも呼ばれているが、実際に住んでいたかはよく分かっていない。
館内には、昨日の記事で紹介した神子畑選鉱場のかつての写真や模型などが展示されている。
ここから西に歩くと、廃校となった神子畑小学校の建物がある。
この廃校の建物も、いつ解体されるか分からない。神子畑小学校は、昭和47年に閉校になったようだ。最後の卒業生を送り出してから、もう48年経ったわけだ。
私の母校の中学校も廃校となった。小学校も廃校の危機にある。自分が学び育った学び舎というものは、懐かしく、思い出深いものだ。
神子畑選鉱場の廃業と共に、ここで仕事をした人と家族の生活も一変しただろう。人々の生活様式の変化や産業の消長と共に、街や村も拡大したり消滅したりする。寂しいことだが、これも歴史の一面である。