明延鉱山

 兵庫県養父市大屋町明延(あけのべ)には、かつて明延鉱山と呼ばれる鉱山があった。

 明延から採れた銅は、天平時代に東大寺の大仏を鋳造する際に奉献されたとも伝えられている。

 明延鉱山は、平安時代初期の大同年間(806~810年)に採掘が始まったとされ、明治初年に官営の鉱山となり、明治29年に三菱合資会社に払い下げられた。

 明治42年に錫の鉱脈が発見されると、一時は日本から産出される錫の90%を生産するまでになる。

 大正5年に、明延鉱業として独立した。大正8年に神子畑選鉱場が出来ると、昭和4年には、そこまで鉱石を運ぶためのトロッコ列車が開通した。

 神子畑選鉱場跡の資料館に、明延鉱山の作業場のジオラマが展示されていた。

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明延鉱山のジオラマ

 明延鉱山で採掘された鉱石は、明延の選鉱場である程度破砕された後、一円電車と呼ばれたトロッコ列車で6キロメートル離れた神子畑選鉱場まで運ばれた。

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トロッコ列車ジオラマ

 明延鉱山は、昭和62年に閉山した。

 まだ有力な鉱脈が残ったままだったが、プラザ合意後急激に円高が進み、外国産の安価な鉱物に対抗できなくなり、閉山に追いやられた。

 明延鉱山の選鉱場のあった場所に行ってみようと思ったが、立入禁止になっているので諦めた。

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明延鉱山選鉱場跡への道

 明延の町には、鉱山の町として賑わっていたころの建物が少しだけ残っている。その内の一つが、第一浴場の建物である。

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第一浴場

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 明延地区には、鉱山労働者や家族のための共同浴場が6つあって、入浴料は無料だったようだ。鉱山で一日働いて汗と埃まみれになった作業員が、この浴場で同僚と風呂に入って、色んなことを語り合ったことだろう。

 第一浴場の建物は開いていなかったが、窓から中を覗いてみると、写真などの資料を展示しているようだった。

 第一浴場の前には、明延鉱山の独身寮だった明和寮の跡地がある。

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明和寮跡地

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 今は住む人も少なくなったこの辺りも、鉱山が栄えていたころは、夕方など人でごった返していたことだろう。

 明延地区には、鉱山の歴史資料を展示する明延鉱山学習館がある。

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明延鉱山学習館

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 私が訪れたのは月曜日で、鉱山学習館は閉館していた。

 学習館の回りには、一円電車の様々な車体が展示してあった。

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鉱石を運ぶ列車

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客車赤金号

 明延鉱山で採れた鉱石を神子畑選鉱場まで何往復も運んだ列車だ。

 明延鉱山の坑道跡は、明延鉱山探検坑道として、予約制で公開されている。

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明延鉱山探検坑道

 日曜日は、予約なしで「探検」できるようだ。私は事前に予約せずに来たから、中に入ることは出来なかった。

 この坑道内に入った方がネット上に公開した写真などを見ると、なかなか面白そうな坑道であった。

 時代と共に産業は消長するものだが、有力な鉱脈を残したまま閉山したこの鉱山が、再び復活する時がいつか来るのではないかと想像してみたりした。