医王寺の参拝を終えて、再び土師川を渡り、京街道沿いの宿場町、生野の里に向かった。
生野の里は、和泉式部の娘である小式部内侍の歌、「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天橋立」の歌に詠まれている。
生野の集落の奥に、「延喜式」式内社の生野神社がある。地名で言えば、福知山市三俣にある。
式内社とは、延長五年(927年)に藤原忠平が調査し、「延喜式」に選上登載された、中央政府にも名の知れた神社のことである。
生野神社の創建がいつかは分からないが、「延喜式」のころには既に名の知れた神社だったようだ。
祭神は、天鈿女(あめのうずめ)命である。天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天照大御神の気を引くために、岩戸の前で乳房を露わにして踊った神様で、歌舞音曲を司る女神である。
生野神社は、鎌倉時代から江戸時代まで御幣(みてぐら)神社と呼ばれていた。
慶長年間(1596~1615年)に社殿の改築があったらしい。当時の社殿は、背後の山上にあったそうだ。
神社がいつごろ現在地に移転されたのかは分からない。
明治6年に生野神社と改称し、昭和4年に拝殿が新築された。
拝殿は、向拝が前に伸びた特徴的な形をしている。そして向拝の彫刻が見事である。
説明板には、拝殿は昭和4年の新築と書いているが、丹波の彫刻師の一族である中井権次一統を紹介したパンフレット「中井権次の足跡」によれば、生野神社の社殿の彫刻は、中井清次郎正用が手掛けたという。
確かに拝殿の彫刻は、エッジが効いて立体的な中井権次一統の彫刻の特徴を有している。
この拝殿は、実際は中井権次一統が活躍した江戸時代中期の建築で、昭和4年に修復されたものではないかと思われる。
本殿は、銅板葺の流造で、脇障子が正面に向いておらず、45度斜め後ろに開いている。
日本の木造建築は、火災や風水害に弱いが、再建される際に当代一流の職人が手を加えることにより、新たな命を吹き込まれる。
東大寺も平家によって焼かれたことで、鎌倉時代に重源の建築や、運慶、快慶の彫刻を得て甦った。
丹波を中心に、江戸時代中期に中井権次一統の彫刻を得て新たな命を吹き込まれた寺社は多い。
燃えやすく脆いが、再建されて生まれ変わる木造建築の面白さに、見るべきところが多いと感ずる。