生野銀山の坑道で現在公開されているのは、金香瀬坑道である。
写真左のトンネルの入口のようなものが金香瀬坑道の入口で、右側の橋の奥が坑道の出口である。
坑道出入り口の周囲は、岩壁を清冽な滝が流れ落ちており、心地好い空間である。
坑道入口の手前には、明治初頭に日本に招かれ、生野銀山の近代化に努めたフランスの鉱山師ジャン=フランソワ・コワニエの胸像が建っている。
コワニエは、五代友厚の紹介により、明治元年に明治政府の御雇鉱山師として来日し、生野に着任した。
彼は、生野銀山の開発計画を策定し、採鉱、選鉱、精錬といった作業の機械化を進めた。
火薬による坑道の爆破、坑道内の鉄道の軌道敷設、巻揚げ機の設置もコワニエの功績である。明治10年に任期満了に伴い、コワニエは日本を去った。
明治初頭は、多くの外国人技師が日本政府に雇われ、日本の近代化に貢献した。コワニエもその一人だ。
金香瀬坑道の坑口も、コワニエが導入したフランス式の坑口である。
この坑口も、明治の産業遺産の一つだろう。
実は私が生野銀山を訪れたのはこれで2度目で、前回は真夏の猛暑の日だった。
坑道内は、年間を通して気温が約13℃で一定しており、前回訪れた時は、この坑口から冷風がどんどん外に向かって吹き出ていた。まるで天然のクーラーのようだった。ここを訪れるなら、真夏の猛暑日がお勧めである。
さて坑内に入ると、確かに肌寒い。私が訪れたのは、9月28日の雨の降る日だったが、それでも外の気温よりは低かった。
金香瀬坑道は、金香瀬山という山を掘り進んだ坑道だが、この山全体が巨大な岩山であり、坑道を見学すると、その岩山を人間が掘り進んだという地道な気の遠くなる作業を実感できる。
ところでこの観光坑道には、各所にマネキンを設置して、江戸時代から昭和時代までの坑道内の作業風景を再現させているのだが、そのマネキンが悉くハンサムである。朝来市では、このマネキン達をGINZAN BOYZという御当地アイドルとして売り出しているという。
坑道内は、風通しが悪いので、人力で換気する必要があった。江戸時代には唐箕(とうみ)という道具で換気をした。この作業員を手子(てご)と呼んだそうだ。
江戸時代には、堀大工という作業員が、鑿一本で岩を削りながら鉱脈を探り当てた。
このような堀大工が鑿一本で掘った跡が、岩壁には残されている。
このように穴を掘って行くと、岩から染み出た地下水が穴の中に溜まっていく。それを樋引人足という作業員が、樋を使って手作業で汲み上げた。
江戸時代には、坑道内を上下に移動する時は、雁木梯子という木柱から作った梯子を使用したが、地下水で常時濡れていたであろうから、足が滑りやすい非常に危険なものだったろう。
又坑内の横の移動は、人が這ってようやく通れる狸掘という穴を利用した。サザエの貝殻に菜種油を入れて、それを燃料にして火を灯して明かりにし、それを頼りに移動した。
さて坑道をしばらく進むと、鉄柱、鉄板やコンクリートで坑道を支えた場所を通過し、今度は近代的な昭和の作業風景が再現されたエリアに入る。
昭和には、ダイナマイトにより鉱脈を爆破し、砕け散った鉱石をスクレーパーという機械で掻いて、井戸と呼ばれる穴に落とした。
井戸の下には、鉱石を積むためのトロッコ列車が待機していて、鉱石を満載してから出発した。トロッコ列車は、立坑という地上まで鉱石を運ぶ巻揚げ機のある場所まで鉱石を運んだ。
近代に入って、作業が機械化され、生産性が上り、鉱石の生産量も増加しただろうが、その代り鉱山の枯渇も早めたことだろう。
生野銀山が閉山となったのは、昭和48年であるが、生野の町を散策すると、まだ銀山の記憶が町に生きているのを実感した。
この鉱山で働いた人たちが、皆物故者となった時が、この鉱山が本当の意味で歴史になる時だろう。
しかし、日本の発展を支えた作業員たちの仕事については、語り伝えていく必要があるのではないかと思った。